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アサリを飼う

先日、飼っているヤマトヌマエビが卵を抱いているのを見付けた。
迷惑な話である。
卵を付けなければ私は何もしなくて良いが、卵を付けてしまえば 私は「何もしない」か「何かする」かを選択しなければならなくなるのである。
ヨシ子ちゃんからしかチョコを貰えなかったら選択の余地もないが、 エツ子ちゃんからもチョコを貰えたら、どちらかを選択しなければならなくなるのと 同じである。
この場合、何もしないと、押しの強いエツ子ちゃんに恋人宣言を出されてしまうのは 目に見えている。それはマズい。
ヤマトヌマエビの場合も、「何もしな」ければ、孵った卵は同じ水槽に住んでいる メダカの餌になるのは間違いないのだ。それはマズい。
これはしかるべき方法で隔離し、孵して育てねばなるまい。
と、いうわけで、ヤマトヌマエビの繁殖の仕方を調べてみたのだが・・・・。
これが結構難しい。
なんと、ヤマトヌマエビの成体は淡水で暮らすにも拘わらず、 その幼生(ゾエア)は海水で育てなければならないらしいのだ。
面倒な生物である。
川に住んでいるのならば川で育てばいいものを。
何故わざわざ河口近くまで降りて浸透圧の変化に自らの身を晒さねばならないのだろう。
そうまでして親の監視を逃れたいのか、親の愛情が疎ましいのか。
いや、私はそんな悲しい関係は認めない、認めたくない。
恐らくヤマトヌマエビの幼生は、ただその遊泳力の無さ故に海の方まで 流されてしまうだけなのであろう。 長い年月のうち、海水に耐えうる能力を持った個体のみが生き残り、やがて、 そうでなくては生きていけない体になってしまったのに違いない。
それはそれで・・・文字通りただ流されるだけの悲しい話ではある。

さて、そんな風にヤマトヌマエビの親子関係に思いを馳せるのも悪くはないが、 それだけでは卵は育つまい。何はさておき、私は、幼生を育てるための海水を 手に入れなければならないのである。
がしかし、手軽に海水を手に入れられる環境にはない。 さてどうしよう食塩水でも大丈夫なのか?と一瞬困ったが、 そんな人達でもクラゲが飼えるように、「人工海水の素」というのがこの世には 売られているのを知った。
需要あるところに供給あり。売買契約のあるところに不正な利潤を得るものあり。
たかが塩+αの癖に、1袋(10L用)400円もする。 がしかし、私に選択権はあまりない。仕方なく購入。
これで誰かの懐がちょっと暖まったに違いない。

さらに、我が家の水槽は今まで、エアーポンプもヒーターもついていない安普請だった のだが、「飼い方」を見ると、この季節、どうも必須である。 これも購入。
さらに温度計と比重計も購入。海水用のバクテリアまで買った。
毎年真冬でも外に放置されたままのメダカたちが嫉妬しそうな程 手厚いもてなしである。

【初日】
さて、ものは大体揃った。
エアーポンプを設置し、ウィローモス(藻)を放り込む。
水草が足りないだろうか、と、メダカの水槽に入っていた水草の、 増えすぎた分をとって海水の入った水槽に放り込む。

【2日目】
なんだか、海水の水槽からソコハカトナク妙な臭いが漂ってくる。
水も白く濁っている。
人工海水を使ったことがない私は、それが正しい現象なのかそうではないのか 全く分からない。分からないが、本能的に、間違っているような気がする。
やはり淡水用の水草を海水に入れたのがいけなかったのか?!(当たり前だ)
水草を取り出す。

【3日目】
淡水用の水草は取り去ったにも拘わらず、臭いがどんどん濃くなった。
磯の香りと似てなくもないが、 コーヒーの香りと納豆の匂いが似ているというレベルである。(←結構似てるよね。)

【5日目】
それでも私は現実から目を反らし続けていたのだが、近寄ると吐き気をもよおす までになるに至って、とうとうある可能性を考えないわけにはいかなくなった。つまりー。

この水槽の海水は、もしかして腐っているのではないか!?

この場合、 海水が腐っていて、エビが死んでしまうのでは?という心配があるのなら、 簡単に解決する方法がある。
水を全部取り替えるのである。
勿論、私はその解決方法に気付いた。が、それは金持ちの論理だ。
だって、何にも使ってないのに捨てるのは、勿体ないじゃないか。
それにもしかして、良い感じにプランクトンが発生していたりするかも しれないし。

というわけで考えたのが、「あさりカナリア化計画」である。
炭坑にカナリアを連れていくことによって、酸素の欠乏という危険を回避しようと いうアレである。 カナリアは酸素の欠乏に弱いため、生きた高精度センサーとして使われたのである。
カナリアがパタっと止まり木から落ちたら人間は速やかに撤退、 カナリアが死なずにいたら人間様も大丈夫。なんて残酷なアイデアなのかしら。
今回私は、それと似たようなことをしよう、と考えたわけである。 アサリを先に入れて、アサリが死ななかったら孵ったエビを入れる、 アサリが死んだら水を作り替えて綺麗にしてからエビを入れる。 ・・なんて合理的なアイデアなのかしら。
こんな風に自分がアサリの命を使おうとしていることを考えると、 命に高いも安いもないなんてとてもじゃないが言えない。
とりあえずアサリは20数匹で150円である。
私はその中から柄の違う5匹を選び出し、問題の水槽に入れたのであった。 計40円の命である。
どうでもいいことだが、このような場合に、何故「柄の違う」綺麗な5匹を選ぶのか、自分の行動に論理的な説明をつけるのはとても難しい。

ところで、アサリを調理するという行為は、もっと身近な大量虐殺であるといえる。 例えばアサリの味噌汁の場合は、 石川五右衛門よろしく生きたまま、水からゆっくりゆっくりと火で湯がいていくわけ である。(石川五右衛門の場合は油だったか。)
こんな風に死ななければならない生物が存在する、というだけで、私はもう、 「慈悲深く偉大な力を持った神」の不在を確信してしまう。
私がもし仮に慈悲深く、かつ偉大な力を持った神であったならば、こんな 苦しみの末に美味しく頂かれてしまう悲しい生命を作らないだろう。
ああ、せめて。
せめて、彼らに発声器官があったならば。

煮ている途中に「くぅううん」とか「みぁー」とか鳴く生物であったならば、 恐らく我々は曖昧な罪悪感に駆られ、コンロの火を黙って消すに違いないのに。

閑話休題。

ふと台所を見ると、母親が嬉しそうに、残ったアサリにメダカの餌をやっていた。
なにすんねん。
あまりに嬉しそうなので、私も横から覗いてみたが、深皿に入れたアサリは元気に、 『婆さんの乳のような』(って思うのは私だけか?) 漏斗管を出して、しきりに水を飛ばしていた。
がしかし、肝心の水槽に入れたアサリの方は、なんだか元気がない。
やはりこれは、水が悪いのか・・。

数時間後、母親が、他の残ったアサリも飼うと言い出した。情が移ったらしい。
内心「それはやめてほしい」と思ったが、 ここで飼うのを止せといえば、赤ミミズが主原料であるメダカの餌を食ったアサリを 私が食べることになるのは確実である。
黙って従うことにした。

アサリを入れた翌日。
水槽の中のアサリが1匹割れて死んでいる。
死んでいるのはまあいいとして、何故不自然に割れているのだろう。
エボラ出血熱か!?
まぁこの個体が弱かったって事で。死んだ貝を取り除いて後は放置。

が、さらにその次の日。
あっけなく全部のアサリが死んでいた。
ただし、前日のとは違い、普通に口を開いて死んでいた。
これが通常の死に方なのであろう。
それを考えると、力を抜いている状態だと殻は開いているのだろうか。 生きている間は、常に貝を閉じる方向に力を入れているのかも知れない。 考えただけで疲れる。
ところで、彼らの死因は何だったのだろう。
やはり、水が汚かったのだろうか。
だが、ヒーターが熱すぎた可能性も否定できない。
実は、水槽の中は味噌汁状態だったんだろうか。
味噌を溶かして誰かに飲ませてみたら、「良い出汁(ダシ)でてるね。」とか言って 舌鼓を打ったのだろうか。

結局、アサリが死んだ原因が海水の汚れにあったのかそうでなかったのか 判断できないままだったが、 「アサリが死んだことによって水が汚染された」ことだけは確かである。

結果的には水を全取り替えしなくてはならなくなった、という結論 に導いてくれたわけであり、 アサリは、見事、その役目を果たしてくれたのである。

そう、君たちの命は、無駄ではなかった。
・・・例えその後、エビの子供達が全滅してしまったのだとしても!!

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