犯罪の凶悪化、低年齢化、覚せい剤乱用、援助交際、暴走族、集団強盗・暴行。
我が国の安全神話は、既に、幻想でしかないのではないだろうか?
最近、そんなことを考えるようになった。
だが、事態は想像よりも遙かに悪い方向へと進んでいた。
我が国どころではない、何があっても最後の拠り所となるべき「我が家」も、
私にとって決して安全ではない地帯となっていたのである。
そう、我が家に、黒いアレが出現したのである。
繊細なセンサー。
流れるようなフォルム。
風を切るそのスピード。
そして、何よりも特徴的な、あの、艶やかな黒曜石の色。
ゴキだ。
ゴキが出たのである。
そいつは、台所に掛かった黒いエプロンの影で息をひそめていた。
私は、エプロンの横の棚にコップをおこうとして、それに気付いたのであった。
とはいうものの、実はこの時点で、私はソレがアレだと気付いたわけではなかった。
何故なら、最初に見えていたのは、まっすぐに揺れる触覚だけだったのである。
まっすぐ。
まっすぐ?
私はゴキの絵を描くとき(いや、別にそんなにしょっちゅうゴキの絵を描いている
わけでは決してない)、こんな感じで書く。
そう、私の想像の中では、ヤツの触覚はいつもカーブを描いていたのである。
だから、そのまっすぐな触覚を見たとき、私はそいつの本体を、アレだとは思わなかった。
呑気なことに、コオロギだと思ったのである。
・・思いはしたのだが、だがやはり、コオロギではない可能性も捨てきれなかった
私は、母親を呼んだ。
「ねー。エプロンのトコに、何か虫がいるよ?まぁ多分、コオロギだと思うけど。」
わざわざ丁寧に、自分の推測まで付け足した。
今になって思えば、それは、本当にコオロギだと思いこんでいたのではなく、
もしそうではなかった場合に備え、私と同じ程度にはゴキが嫌いな母親を
とりあえず台所まで引きずり込んでおこうという無意識に仕掛けた罠だったのかも
しれないが、まぁいずれにせよ過去の話だ、真実を追究することに意味など無い。
母親は立ち上がってこちらへやってきた。
エプロンを上から覗き込む。
「・・・。ちょっとこれゴキブリじゃない!」
だがしかし、薄々そんな恋の予感はしていたものの、
私はすぐには母親の言葉を信じなかった。
私は何に関しても自分の目で確かめるまで信じない性質なのである。
さらには、自分の目で確かめても信じたくないものは信じない性質なのである。
とはいうものの、この場合、ここで無かったことにしてしまうのは、なおさら恐ろしい。
というわけで、私はまず、その正体を見極めるべく、エプロンの裏を上から覗き込んだ。
見えない。
照明の関係で、自分の影が邪魔して見えないのだ。
これが、かの有名な
「観測者の、観測するという行為そのものが観測対象に影響を与えてしまう」
という量子力学の問題だろうか。
だが私は、その観測問題に打ち勝つ方法を思いついた。
懐中電灯だ。
だがしかし、懐中電灯で照らし、その上からヤツを覗き込むという行為は
あまりにも危険だ。
突然の光に刺激されたヤツが、私の顔めがけて襲いかかってくるかも知れない
ではないか!
そこで私は次の手を考えた。
手鏡だ。
私は母親にヤツの観察を任せ、(ゴキにしろそうでないにしろ、この間に決着
ついてないかなぁ〜)という淡い期待を胸に抱きながら、
洗面所におかれている手鏡を取りに行った。
無論、3mも離れていない洗面所に鏡を取りに行って戻ってくるまでには
数十秒も掛からないわけで、ヤツはあいわらずエプロンの影で私を待っていた。
左手に手鏡を握りしめ、出来うる限り手を伸ばし、鏡をかざす。
そして、黒い悪魔を白日の下に晒すべく、鏡に懐中電灯の光をあてる。
自分の頭の良さにちょっぴり誇らしい気分になった。
のも束の間、鏡が写したこの世のものとは思えぬおぞましい光景に私は瞬時に震え上がった。
・・・・・・・ゴキだ。
これは紛れもなく、ゴキである。
我が家に年に一度のペースで現れるゴキである。彦星さんである。
私は、慌ててスリッパを履き、臨戦態勢に入った。
(裸足でゴキの走った後を踏みたくないからである)
ところで、こういうときは、父親を呼んでくるのが我が家の風習である。
いつも、「父親の存在の有り難さを実感するよ」とおだてて全部押しつけるのだが、
生憎その日、父親は既に寝てしまっていた。
・・・無論、そんな時でも、父親を起こすのが我が家の風習ではあるのだが、
今年は実は大漁で、もうこれで3度目なのだ。
流石にちょっと、起こすのは申し訳ない。
恐らく母親もそう思ったのであろう。
尤も私は、真実それが父親に申し訳ないから、というより、
『また父親を起こす』という社会的正義に反する行為を『自分が率先して』行うことに
抵抗があっただけだから、もしここで母親が、「お父さん起こしてきて」と一言でも
言ったのならば迷わず父親を叩き起こしてきただろうが、生憎母親は
そう言わなかったので、出来なかったのである。
恐らく母親もそうであったのだろう。
そんなこんなで、ゴキ嫌いの私と母親は、「どうしよう(どうにかしてよ)」
「どうしよう(どうにかしてよ)」と涙目になりながらもゴキと戦う決意をしたので
ある。
母親は洗剤を、私はアースジェット(蚊・ハエ用)を握りしめた。
ゴキブリ用ではないのが少々心許ないが、無いよりはマシだ。
まず、エプロンの上から第一撃を加える。
プシュー。
サササササッ。
「ぎゃー」
早くも連係プレーは乱れ、敵の姿を見失う。
ちょうどエプロンの横は棚で、棚と壁の間にはビニール袋やら紙袋やらが
置いてあって、その辺にいるんだかいないんだか分からない。
とりあえず、いそうな辺りにアースジェットを撒き散らしてみるが、苦悶の声が
聞こえてくるわけでもない。
もしかして、拠点を移してしまったのか!?
その時、私は耳に入ってくるTVの音に気付いた。
これだ!
人間の感覚には、視覚以外にも聴覚というものがあるではないか!!
私は居間に行き、聴覚情報を乱していたTVの電源を切った。
耳を澄ます。
カサ。
カサカサ。
・・・いた。
姿は未だ見えないが、この辺りにいることは間違いない。
私は自分の冷静な判断にちょっぴり誇らしい気分になりながら、
音の聞こえる辺り目掛けてアースジェット砲を連射した。
そして運命の時がやってくる。
それは毒霧に耐えられず、棚の下の隙間にひっくりかえった。
青島、確保だ!
こうして我が家の騒動はなんとか終わりを迎えたわけだが、
終わってから数分後、父親がのそっと起き出してきたのに対し理不尽な怒りを
覚えた私を、誰も責めることは出来ないに違いない。