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ドナーカード



先日、役所に行ったついでに「ドナーカード」(臓器提供意思表示カード)を貰ってきた。
別に「私の臓器で誰かが助かるのなら、こんなものいくらでも差し上げますわ」的な “献身的”正義感が私の手をドナーカードへと伸ばさせた訳ではない。
寧ろ、どちらかというと、自分が欲しい時に堂々と「くれ」と言える、とか、或いは、 死んだ後も、一部だけでも他人の体の中で生き延びてやるー あわよくば乗っ取ってやる、とかいう超セコイ考えでは無いと言い切れるかどうか が微妙な所であるかもしれないといった感じである。
ま、理由はともかく、私はドナーカードを貰ってきたのであった。

まず、ドナーカードの説明書のQ&Aを読む。
なになに・・・?

Q:意思表示カード(ドナーカード)を持っていることで、治療が変わったりするのでしょうか?
また、何か費用がかかるのでしょうか?

A:そのようなことはありません。
救急医療は、あなたの命を救うことを第一に考えて行われます。また、臓器提供者(ドナー)の 側には提供のための費用は一切かかりません。

爆笑してしまった。
つまりだ、瀕死の重体(脳死ではない)で運ばれてきた人間がドナーカードを持っていた場合、 治療が適当になるんじゃないか・・・というより、治療を受けられないまま殺されてしまうんじゃ あないか?という質問なのである。
A:そのようなことはありません。
そりゃあないだろう・・・。あったら困る。というかあったら怖すぎる。
が、しかし。
有り得ない話ではない。
一人を殺せば三人助かる。そんな状況で、果たして一人の命を救うのが正義なのだろうか?
う〜ん、哲学。

「なぜ、新兵一人の救出に8人の命を賭ける価値があるのか?」
(映画『プライベート・ライアン』より)
ちなみに、プライベート・ライアンは、臓器提供の話とは何の関係も無い。今ちょっと 思い出しただけ。

そりゃあ、普通に考えて「救うべき」なのだとは思う。 これは哲学の問題ではない。 そうしなければ、秩序が守られないからである。 これが守られなければ、そもそもドナーカードなんて持つ人はいなくなってしまうわけであり、 この臓器提供システムは機能しなくなってしまうのである。
が、しかし、もし担当医の息子が臓器待ちしてたりしたら!?
臓器が無くては死んでしまうとしたら!?
今ならぎりぎり間に合うとしたら!?
そんでもって今、誰も見てないとしたら!?(笑)
私がその担当医なら、死にそうで死なない患者を殺さない自信は、無い。
そう考えると、確かにこのQ&Aって、笑えないものがあるよなぁ。
少〜し怖くなってきた。

とはいうものの、せっかく持ってきたのだからやっぱ○つけなきゃ損だ。いや、別に損はしないけど。

さて、このドナーカードには、大きく分けて、三つの項目がある。

<該当する1、2、3、の番号を○で囲んだ上で提供したい臓器を○で囲んでください>
1.私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・その他( )
2.私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。
腎臓・眼球(角膜)・膵臓・その他( )
3.私は、臓器を提供しません。

3番が存在するのが結構笑える。
わざわざ「誰にもやらねーゼッテーやらねー 死んでもやらねー」と3番に丸を付けてそれを携帯するのも どうかと思うが、ま、それは人の勝手か。

さて、まずは一番だ。
脳死状態になるのは極めて稀であろうから(1%未満らしい)、一番には迷わず○を付ける。
次に、提供する臓器の欄。「提供したい臓器」という表現が少しひっかかる。
だって別に、提供「したい」ってわけじゃあないもん。
どちらかというと、「そんなに言うなら提供してやらなくもないぜ、ぇえ?」とか ・・・ゴホン、いや、そうじゃなくて、えっと、だな、そうそう、 提供「してもいい」臓器なんだけどなぁ、とか。ま、どうでもいいけど。
私は心が広いのである。ふふん。表現がちょっとばかし 気に触っても、いちいち反発したりしないのである。
膵臓あたりだけ○を付けないというのもちょっと乙な感じ(?)がして惹かれたが、 心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸、全部に丸を付ける。
だって心が広いから。

が、2番−完全なる「死」後に臓器を提供する、の欄で、私は迷った。
脳死、は、ならないかもしれない。だが、人間は−私の知る限りでは絶対死ぬのである。
キリストだって一度か二度かは死んだのである。スサノオノミコトだって死んだらしいのである。 ヒットラーも自殺したし、司馬遼太郎だって死んじゃったみたいなのである。 皆みぃんな死ぬのである。だから、多分、私も死ぬのである。
そしてドナーカードを持っていれば、多分、臓器が取られてしまうのである。
いや、別に死体になってしまったら、角膜が取られようが腎臓が取られようが 写真に撮られようが構わないような 気もする。するのだが、「絶対」取られる、というのが嫌なのである。
絶対死ぬ→死んだら絶対取られる。
こんな風に未来が決まってるのは何だか嫌である。
日にちが偶数だったらあげる。奇数だったらあげない。そんな選択肢があったら良いんだけどな。

結局、私はドナーカードの二番に○を付けないまま迷っている状態だったりする。

こうやってたかがドナーカードに色々迷っているわけだが、死後、
「残念ながら、この体には再利用出来る部分がありません」
とか断られたら、虚しいだろうなぁー遺された家族が。

<終>

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