愛とはこの世で最も崇高なものであり、唯一の絶対的な真実である。
そう言ったのは誰だったか。
とりあえず、私が今思いついた適当な言葉なので、誰の言葉でもないのであろう。
誰の言葉でもない、が、どこかで聴いたことがあるような言葉でもある。
3年前までは私のパジャマであった筈のベランダの雑巾程度には使い古されている
台詞だ。
であるからには、この地球上60億人のうち何%かの人間は、実際に永遠の愛を信じているのではないだろうか。多分。
とりあえず、先日行った結婚式では、新郎新婦は栄養失調気味のYESマンに向かって永遠の愛を誓っていた。
それは確かに、微笑ましく、祝福されるべきことであるように見えた。
だがしかし、真実を望むのならば、彼らは知るべきである。
愛に、打算や自己陶酔や金銭的問題が全く絡んでいないわけでもない、という現実に。
ましてや、永遠の愛など、存在しないのだという真実に。
いや、そんな風に一般論にまとめるのは間違っているのかも知れない。
私は所詮、「私」という小さな殻に止められた卑小な存在に過ぎず、
他人の誓う永遠を否定する権利も確固たる根拠も持たないのだから。
だから、私が言えるのは己についてのみであろう。
少なくとも私は、自分自身については、永遠の愛を信じることが出来ない。
こんなことがあった。
私はその頃、猛烈に忙しかった。就寝前も、布団に入ってから未練がましく書類を広げる程に。その時に思う解放された世界は、何て楽しく、輝きに満ちたものだったことか。
この忙しい時期が過ぎれば、私は毎日でも深酒が出来るし、読書もできるし、
そう、時々街に遊びに出たって良い。
そこは明るいばかりの未来予想図だ。
が、忙しい時期が終わった途端。
無論、予定通り深酒はするし、読書もするし、気が向けば友人と遊びに行く約束をしたりもするのだが、それは想像していたよりも遙かに感動のない日常なのである。
あんなに恋い焦がれた「未来」は、現実になってしまえば、平凡でつまらない
時の積み重ねに過ぎない。
起きている現象そのものは、かつて自分が確かに望んだものと変わりがないというのに。
あの恋焦がれた切実な思いは、まやかしだったというのか。
ああ、もっと身近な例があった。
そう。例えば・・私はとてもお腹がすいていた。
あぁ、肉まんが食べたい。
不意に思う。
肉まん。肉まん。肉まん。
に・く・ま・ん・が・く・い・た・い
肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん、肉まん
、肉まん、肉まん、豚まん?肉まん、肉まん!肉まん!?肉まん♀肉まん♂肉まん
脳みその作業領域のほぼ全てがその単語に埋め尽くされそうなその時、
私は肉まん屋を見つける。
「肉まん“みっつ”ください」
手のひらに馴染む、その白く柔らかな暖かい物体。
ある意味純粋な欲望のまま、私はその肉まんにむしゃぶりつく。
ひとつ。ふたつ。
腹を満たして、そしてその時、自分の激しい心変わりに気付くのである。
肉まん?やめて、そんな脂っこいもの、見たくもない。
どっかにやっちゃって。
私の肉まんに対する評価は、数分前とは、明らかに違う。
肉まんそのものには、何の変化もなかったというのに。肉まんには、何の罪も無いのに。
あぁ、肉まんの嘆きが聞こえるようだ。
私が肉まんだったら、私の仕打ちをさぞかし恨むことであろう。
私自身、あの切実な渇望を覚えたモノに対し、数分の後にはあらゆる関心を失うどころかむしろ唾棄すべきものとして切り捨てることが出来る己の変わり身の早さには、最早呆れるしかない。
そんな己を知って尚、永遠の愛を信じられるほど、私は愚かではない。
そして恐らくこれは、私に限ったことではあるまい。
それでもあなたは永遠の愛を誓いますか?
YES NO