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頑張る気持ちの減る話


「貴方の命はあと半年です。」
例えば今、医者からそんな風に告げられたら、貴方は残りの短い人生をどう生きますか?

私の場合は多分、狂ったように何かを作り続けるのではないかと思う。
日本語も満足に話せないのに、小説を書こうとしてみたり、 絶対誰にも見向きもされない「自伝」なんてものを書いてみたり。自己満足。はた迷惑ですね。
あるいは芸術作品と称してゴミにしかみえなく事実ゴミそのものである物体を 作り上げてみたり。

何かを作り続けるーつまり、自分がこの世界に存在した証を残したい、という訳である。
確実な方法、子作り・・・は、あと半年では無理だろうし。
自分が死んでから100年後、私がこの世界に存在した、という事実が跡形も無く消え去っている というのは、考えると少し恐い事のような気がするのである。いや、戸籍にくらい残るんだろうけど。
が、まぁしかし冷静に考えてみれば、死んでしまったら後の事はどうでもいい、という気もする。 死んでから勲章を貰っている人なんかのニュースをみると、
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁあ。」
と思うし。
極端な話、私が死んだ次の日に世界が滅びたって全く構わない。
私が死んだ次の日に、日本がアメリカの一地方に落ちぶれてしまっても構わない。
私が死んだ次の日に、昔の私の悪事が全国ネットで放送されても構わない。

そう考えると、やはり死後の事なんか考えないで、遊びまくるのがベストか。
旅行行って、温泉入って。美味しいもの食べて。
本を読んだり友人と会ったりゲームをしたり、は、しないだろう。
だって、あと半年の命でそんな事しても意味無いじゃん。
動物的欲求(むふふ)を満たす事に専念する事になるのだろう。
こういうの、刹那主義っていうの?なんかカッコイイ響きね。
金が無くなったらその辺に盗みに入って。
だってあと半年の命なんだよ。現世の行いが響くような来世なんてモン、存在してないんだろうし。 私は輪廻転生なんて便利なものを信じてはいないので。ついでにいうと、「復活」もね。 ま、盗みに入って捕まって残り少ない人生を刑務所か病院で過ごすなんて羽目になったらキツいけど。

さて、結局私は、あと半年の命である事が分かったのならば、何かを作り続けるか 遊びまくるかどちらかの行動を取るという事になる。そして恐らく、これは平均的 地球人の平均的な回答だと思われる。
何かをのこそうとするか、或いは遊びまくるか。どちらにしても仕事や勉強とは無縁である。
あと半年の命だってのに、誰が好んで働いたり勉強したりするものか!
金を溜め込んだって、どうせ使うのは自分以外の誰か。勉強して脳味噌に知識を詰め込んだって、 死んでしまえば数日以内にその脳味噌は灰になってます。ハイ、さようなら。
そう、「あと半年」の命であると分かっていれば、私は働きもしないし、ましてや勉強 なんてするわけがない。
どう考えたって、それらには意味が無いのである。

では、「あと一年」の命だったらどうだろうか?
私なら、やはり仕事も勉強もしないだろう。
何かを成し遂げるには、一年という時間は短すぎる。
となればやはり、遊ぶか芸術家ぶるか。

さて、では残りの命がどの程度であれば、私は仕事したり勉強したりするのだろうか?
二年?三年?
うーん、まだヤル気でないなぁ。
じゃあ五年?
どうだろうなぁ。まぁ、五年間も遊んで暮らすわけにもいかないだろうけどさ・・・。
十年!
・・・そうだな。そのくらいだったら働いてもいいかな。場合によっちゃぁ勉強したっていいぞ。

という感じである。
そして、恐らく平均的日本人の平均的な考えも、同じようなものであろう。
『十年以上人生が残っているのなら働いたり勉強したりしてもいい。だが、数年の命だったら 遊んで暮らした方が良い。』

恐らく、5歳以上定年未満の日本人ならば、勉強もしくは労働と無縁という事は無いだろう。
だが、しかし、5歳以上定年未満の日本人の全てが、十年以上生きられる訳では無いのである。
そう、あなただって、十年先どころか、24時間後にはあの世の住人になっているのかも知れないのである。
無差別殺人に巻き込まれるかもしれない。
ストーカーに殺されるかもしれない。
列車事故で死ぬかもしれない。
テレクラ「るんるんハウス」で焼け死ぬかもしれない。

現代は危険でいっぱいだ。
あなたが一年後も生きている保証なんて、どこにも無いのである!

もし、今から一年後、私が自動車にはねられたら、宙に舞ってから地面に激突するその間に、
(もっと思いっきり遊んどきゃ良かったなぁ・・・)
と思うに違いない。そして、勉強や労働に費やした時間を、無駄だった、と思うに違いないのである。
そう思いながら凄惨スプラッタ特攻隊。ジ・エンド。
なんか悲惨である。

そりゃ、十年後生き長らえている「可能性」、だって勿論ある。
だがしかし、可能性は飽くまで可能性にすぎない。
例えば私がノーベル文学賞を貰う可能性。
例えば私がツチノコ第一発見者になる可能性。
例えば私が救世主になる可能性。
可能性なんてものはその程度のものなのだ。
十年後、あなたはまだ生きているかもしれない。
が、死んでいるのかもしれない。
それは、誰にも分からないのだ。
分からない、のならば、今、楽しんでいる方が良いじゃないか。
どうせ何をやったって死ぬ間際には後悔するのだろうけれど、だったらそこに至るまでの過程くらい 楽しんだ方が得というものである。

仕事?勉強?
それはつまり、不確かな未来の為に、確かにここにある 「今」を我慢するという事である。

それが分かっていてなお、貴方は頑張る気持ちを持ち続けられますか?

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