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変化の過程


年末である。
年末と言えば大掃除である。
掃除は、嫌いである。
従って、大掃除は、大嫌いである。
ホワイトアスパラ程ではないが、酢豚に入っているパイナップル程度には嫌いなのである。
屈伸の反復というあの重労働は、頭脳派である私には辛すぎる。
間違いなく腰に来る。
また、部屋のあちらこちらから突如として出現するゴミ共に遭遇する恐怖にも耐えねばならぬ。
大体、掃除なんてしなくたって、人間生きて行けるものなのだ。
生きて行けるんだ。
生きて行けりゃあいいじゃないか。
生きて行くって素晴らしい。
でも、生きてるって何だろう?
多分、ミイラ化してない状態の事さ。
さて、そんな嫌いな掃除ではあるのだが、まぁ年末でもあることだし、やはり足の踏み場くらいは 確保しておくべきであろうーそう思って私は大掃除を開始したのである。
どう考えてもそこに潜む余地は無かっただろう、と思われる程の大きなホコリの塊。
一度開けたら二度と閉まらない小箱の中身。
パン5つの食べかすを集めて12の籠をいっぱいにして見せたキリストも驚くであろうこの奇跡。
ここは次元の軸が一本多いのかも知れない。
そんな事を考えながら、私は久方ぶりの掃除を進めていっていた、その筈だ。
が、暖房の効いた部屋で、大掃除は何時の間にか孵化してイモムシになって蛹になって脱皮して、 そうして模様替えにまで成長していたのである。
その結果、私は見ない振りで済ますつもりだった引き出しの中身などにも目を通す羽目になったの であった。
現れたのは思い出の品々と、覚えの無い品々。
例えば中学3年夏休みの自由研究。例えば折畳式双眼鏡。例えば用途不明の金属片。 何故か小学校低学年時分の名札、2年3組。
そんな中に、紛れ込んでいたソレ。
「ソレ」は、幼き日の私の、宝物であった。
カラフルな色彩、均整の取れた球形、一瞬後の激情を予感させる硬質な素材。
その名はビービー弾。
勿論、全部拾い物である。
小学校の帰り道、道端に落ちている弾を見付けては拾ってポケットに入れていたっけ。 今まで拾った事のない色だったりすると、非常に嬉しかったのを覚えている。 蛍光色の弾を見付けた時なんて、家に帰ってわざわざ暗いトイレに閉じこもって、 光を発しているそれをにんまりと見つめたものである。 やった、得したよ!とか考えて。
宝物?ビービー弾が?はっ。
だが、確かにソレは、当事の私にとっては宝物だったのだ。

だが、今こうやって目の前にあるそれを見てみると、何処から見てもただのビービー弾だ。
ハッキリ言ってしまえば、これはただのゴミでしかない。
それ以下かもしれないが、それ以上では決して無いという代物である。
落ちぶれたもんだね、君も。

宝物が何時の間にかゴミに成り下がっていた、という経験は、 誰しも持っているのだろう。
しかし、いや、だからこそ、私は知りたい。
この価値観の劇的な変化が起こるその過程を。

それは、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する時のように瞬間的に起こるものなのか。
それとも、近所のナカニシさんの生え際の後退のごとく、緩慢に進行してゆくものなのだろうか。

一ヶ月50円の小遣いで、酢だこ君が5つも買える、と喜んでいたあの頃を思い出す。 たったの50円が嬉しくて堪らなかったのである。
しかし今なら、酢だこ君5つが目の前にぶら下がっていても、満面の笑みを浮かべたりはしない。 せいぜい顔下1/4くらいだ。 今の私にとって酢だこ君は、その程度の存在といいうわけなのだ。
「大人になるという事は、何かを失う事なんだね。」
そんな陳腐な台詞がふと蘇る。
寂寥感に暫し目を閉じうずくまる。
慣れない重労働による立ち眩みではない、と思う。
だが、酢だこ君やビービー弾で喜んでいた その当時に戻してくれると言われても、 私は必死に拒絶するだろう。 やはり300円のショートケーキと350円のチーズケーキがあったら迷わずチーズケーキを 選びたいし、ビービー弾なんて拾い集めて眺めるよりも、 好きな本を買ったり好きなCDを買ったり した方が楽しいに決まっているのだ。
そう、私は大人になってしまったのだから。

ところで、劇的な変化と言えば、あの純情な私は一体何処へ行ってしまったのだろう。
こんな性格に成り果ててしまったのは、一体何時からなのだろう。
そこには瞬時的な革命があったのか、それとも緩慢な侵食があったのか、
あるいは元から・・・。

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