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人から物を貰う


幼い頃、人から物を貰う、というのは、無条件に嬉しい出来事であった。
例えば、誕生日にプレゼントを貰う事、 遊びに行った友達の家でお菓子を貰う事、 親戚からお年玉を貰う事。
タダで人から物を貰うのが純粋に嬉しかったあの頃。
私は無知で、無邪気であった。

そしてそれから十数年の年月が経った今、私は知であり邪気である。
何時の間にか、人からタダで物を貰うという事に対し、素直に喜べなくなっていた。
素直に喜べないどころではない、時には苦痛であったりもする。

例えば、好きじゃない人間(同性であっても異性であっても)から心の篭ったプレゼントを貰った時。
心が篭っている分、迷惑である。
というか丁重にお断りしても押し付けられた日には最早恐怖である。

手作りクッキー。何か良くないモノが入っているんじゃないだろうか?
貰ったは良いが食べる気がしなくて、ずっと自分の部屋の棚においてあった事がある。 捨てるのは流石に悪い気がして、とは言ってもやはり口に入れるのは 躊躇われ、結果、3ヶ月ほど放置していた事があった。 それが視界に入る度に何かいやぁな気がしたものだった。無論、その後 カビと共に、きちんと捨てましたが。カビを発見した時は、 捨てる正当な口実が出来たような気がしてほっとしたのであった。

時計。盗聴器でも仕掛けられていそうだ。
取りあえず自分の部屋には入れていない。あれもそのうち処分しなくては。
処分といっても、ごみ箱にポイしてしまうと、後々、「あれどうした?」と聞かれてしまった時に 少々困る事になる。
そこで、嫌な奴から貰った物は、従姉妹にあげるのが一番良い解決策だと思われる。
従姉妹も喜ぶ、私も喜ぶ。物のやり取りはこうあるべきである。

アクセサリー。気持ちが悪い。
以前、嫌いであった人間から、誕生日プレゼントとしてアクセサリーを 押し付けられた事があったが、即行、処分した。 嫌いな人間から貰った物を平気で身につけられるほど、私は合理的でもないし、 鈍感でもないのである。御免ね、でも嫌なのよ。思い出しても鳥肌がたつ。
恋人、親友以外の関係の人間にアクセサリーをあげるのは、ルール違反だ、と私は思う。

とりあえず、嫌いな人間からは、身につけるもの、消耗しない日用品、電化製品 、それと手作りモノは貰いたくないものである。処分に困る上、「物を貰う」 というのが「借り」を作る事のような気もするし。

さて、そんなおぞましい話とは別に、貰う事自体は嬉しいのだけれど「貰う」というその行為の 瞬間が嫌な場合が結構ある。
例えば、欲しいのだけれど、手を出すタイミングが難しい時、とか。
私なんか、いつも道端で配っているティッシュにすら、殆ど手を出せません。
自分の歩く早さと、ティッシュ配りの人々との呼吸が合わないのである。 そんなもの、普通は強引に合わせるか合わさせるかして対処するのであろうが、 どうも私はそういう柔軟さに欠けているらしい。そんな私は生まれながらの都会っ子。
さて、都会っ子の私は、年に二、三度、田舎の祖父の家に顔を出しにいく。 すると、祖父は、いつも私に小遣いをくれるのであるが、それを貰う時、私は常に緊張してしまう。
まず第一に、私は既に小遣いを貰うような年では無い。
また、行く度に貰っていると、まるで金をせびりに行っているようである。
そんな事から、素直に「らっきー♪」と手を出すわけにもいかないのである。
とは言うものの、きっと祖父としては可愛い孫に小遣いをあげる事が嬉しいのだろう、なんて都合の 良い解釈をして、結局いつも有り難く頂いているのであるが。
そう、小遣いを貰うこと自体は、無論、嬉しいのだ。しかし、 袋に入ったソレに手を伸ばすタイミングというのが難しいのである。ついでに言うと、 意識のしすぎで視線のやり場にも困る。 私の頭の中には、犬の着ぐるみを着た自分が、 後ろ足で立ち、舌を出して尻尾をちぎれんばかりに振りながら涎を垂らしている姿が 浮かび上がるのである。げへへへへ、くれ、くれ〜。
だが、高尚な人物であろうとする私としては、
「頂けるのは嬉しいけれど、嬉しいのはお金を頂けるからではなくて、貴方のその心が嬉しいんですよ。」
そういった微妙な表現をしなくてはいけないのである。
がしかし、人間の顔が、一体いくつの筋肉で構成されている のかは知らないが、上記のような微妙な表現が出来るほど繊細な物ではないし、また、 出来たとしても、90を過ぎた 祖父の視力では、笑っているか泣いているか程度の表情の違いしか見分けてくれないであろう。
結局私は、手を伸ばすタイミングで、自分の謙虚さ無欲さ高潔さを示すー捏造する 事しか出来ないのである。
そんな事を考えているものだから、祖父から小遣いを貰うのは、結構神経を使う行為なのである。

先日も、こんな出来事があった。
つい一ヶ月ほど前まで、私は家族ぐるみでお付き合いをしているとある知人、の 息子である中学3年坊主の家庭教師をしていた。 高校受験の為である。始めたのは中学3年の夏休みからだったから、普通の受験生と比べると 大分遅いスタートであったが、彼は無事、第二、第三志望に合格した。家庭教師が良かったのであろう。 ちなみに、第一志望に落ちたのは、彼の力−実力なり努力なりが足りなかった所為であると考えられる。
さて、彼は偉大なる家庭教師の御陰で高校浪人をせずに済んだわけである。そこで、私、と ついでに私の家族は彼の家に食事に招待される事となったのであった。

合格したらポケットステーション買ってください、とねだられていた為(苦笑) 、きちんとプレゼントを持ってお邪魔する。親同士が友人である為、会話は彼等を中心に進み、 私も中3坊主もテキトーに頷きながら出された料理を食べていれば良かったので、 居心地はさほど悪くなかった。
そして、食事も終わり、買っていったケーキも出され、さて、そろそろ帰ろうか、という時に、 それは起こったのである。

「これ、大した物じゃないですが、先生(←私)に御礼に。」
オジサンが私に、薄っぺらな封筒を差し出したのである。
封筒?何だこれは?
普通、こういう時は、
「いや、そんな。いいですよ。」
「いえいえ、大した物ではありませんから。お世話になった御礼です、どうぞ」
「・・・そうですか?じゃあ、どうも、ありがとうございます。」
という儀式のような会話が交わされるものである。少なくとも一度は、形だけー飽くまで形だけー 辞退するという日本人的美徳。
今回も、オジサンと私の間で、このような無駄で美しい会話が交わされる筈であった。
が、しかし、私が何か言う前に、私の両親が、大袈裟な身振りを交えて、
「いや、そんな、結構ですよ!!」
「そんな、本来ならこちらがお祝いする立場なのに!」
と言い出したのである。
それは、明らかに「大層なもの」を貰う時の断り文句であった。
私は焦った。実際、かなり焦った。
何故なら、オジサンがくれようとしているその薄っぺらい封筒の 中に、「大層なもの」が入っているとは限らないではないか。
そりゃ、御礼だ、と言っているのだから、普通に考えたら 商品券か図書券か、そういった(遠慮する程度には)素敵な物だと思われる。
だとすれば遠慮もせずに受け取るのは、確かに『はしたない』行動である。
が、もし、その封筒の中身が「大層なもの」では無かった時は・・・。
あんなに恐縮した様子で受け取ってみたら「絵葉書」が入っていた、などという事になったら、 お互いどんなに気まずいことだろう!!

一番リスクの少ない選択はー。
私の脳味噌は、素晴らしい処理速度であらゆる選択肢のメリットデメリットを計算していった。
そして出た結論。

私は、さっと手を伸ばし、その封筒を受け取ったのである。

あげた(貰った)物と、相手(自分)の期待が違った時の気まずさは、半端ではない。
全然大した物ではないのに(あるいはジョーク物なのに)、あげようとしたら相手に恐縮されてしまい、「その包み、一生 開けてくれるな。」と思わず祈ってしまった経験、誰にでもあるのでは無かろうか。あるよね?

「お前、遠慮もしないで」
苦笑混じりに父親に言われ、内心『アンタの所為だろが』と思った。

結局それは、五千円分の商品券であり、私の焦りも全くの杞憂に終わった訳であるが、 たかが封筒を貰うという行為にこれほどまでの精神力を使う私は、 もしかしなくても、すごく欲深いのであろう。 黒い狼が白い羊に化けるには、多大な努力が必要なのである。

<終>

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