戻る

自分の境界線


これはフィクションであり、実在するオヤジ、またはオヤジ団体とは 何の関係もありません。したがって、オヤジに属する者を 馬鹿にするものでもありません。

「自分」という存在と、それを取り巻く世界の厳密な境界線は、一体どこにあるのだろう?

自分の掌を見る。これは明らかに『自分』の一部である。
自分の掌から1cm 離れた空間を見る。これは明らかに『自分』では無い。
このように、自分とそれ以外の世界の間には、一見明確な境があるように思える。
しかし、本当にそうなのだろうか?

例えば、自分の腕の皮は、自分の一部である。 しかし、風呂場でヘチマタワシによって洗い流された垢は、既に自分では無くなっているのだろう。 その境は、とても微妙だ。
また、極端な話になるが、トイレで体から押し出された物体も、自分の一部では無い。 無論、貴方がそれを指差して、「これは私だ!」と主張したとしても構わないのだが、 良識と恥じらいの心を持つ人間ならば、恐らく、
「なんですか、それは。そんな得体の知れない物体、私とは何の関係もないですよ。」
と素知らぬ顔で言うのであろう。それが数分前には自分の体内に潜んでいたにも拘らず。薄情である。
「いや、食べ物に関しては消化器官から吸収された物のみが自分の一部と認められるのだ。 つまり、生きた細胞のみが私なのだよ。」
貴方はそう言うかもしれない。
なるほど、それならば、垢も排泄物も屁もフケも、汚いものは皆自分ではないというメデタシメデタシ な区分けが出来る。
だが、本当にそうなんだろうか?

例えば、ここにアンモニア液の入った瓶があったとする。
貴方は瓶の蓋を開け、匂いを嗅がなくてはいけない。
貴方は恐らくその、鼻を突く強烈な匂いに顔を顰める事だろう。
しかし、それで精神的なショックを味わう事は無いのではなかろうか?
私は、無い。
では、トイレに入った時に真新しい(笑)アンモニア臭を嗅がされた時の悲惨な気分は 一体どういった所以で沸き上がってくるものなのだろうか?
私はこう思う。
それは、そのアンモニア臭を、『前の人の』匂いだと認識するからではなかろうか、と。
そう、その匂いは、ただの分子式 NH の気体ではなく、 『前の人の』匂いなのだ。だからこそ、気持ちが悪いのだ。 つまり、生きた細胞では無いというだけでなく、 その発生源である人とは物理的なつながりを絶たれてしまったにも拘らず、それは 『その人の』匂い、なのだ。その人の、一部なのだ。しかし、
「いや、それは違うよ。トイレの匂いは純粋なアンモニア臭だけじゃなくて、他の成分も 混ざってるんだよ。だから気持ち悪いんだ。」
そんな意見もあるかもしれない。だが、こんな例ならばどうだろうか?

もしかしなくてもこれは偏見なのかもしれないが、オヤジが立った後の座席に 座った時にそこが生暖かいと少し気持ちが悪かったりする。 オヤジの尻で蠢いていた熱が、自分に移動してくる、そんな気がするのである。 熱、とは分子運動であり、それはオヤジとは何の関係も無い筈なのであるが、 気分的にはそれは『オヤジから来た』熱であり、『オヤジの』熱なのである。

こんな例もある。まだまだある。
あまり嗅ぐ機会は無いのだが、『オヤジの足』というものは一般的にクサいらしい。
さて、その『オヤジの足』の匂いだが、もしソレと同じ成分に調合された化学薬品を そうと知らされずに(つまりオヤジの足の匂いだとして)嗅がされたとしたらどうだろう?
匂い、とは気体である。
そして嗅覚とは、その漂ってきた気体分子が鼻にくっつき、神経を刺激することによって知覚する感覚の事である。
そう考えると、匂う、というのは実は結構直接的な刺激である。だから、 オヤジの足の匂いがした、という事は、
「ぅげ〜。オヤジの足から放出された分子が鼻にくっついた〜。
今、口開いてたから口にも入ったぁ〜(泣)」
という事であり、そう考えると 恐らく生理的に気持ちが悪くなるだけでなく、精神的ダメージも受ける事になるだろう。しかし、そこで
「実はコレ、完全に人工的に作られた匂いなんですよ。」と説明を受けたら、
「なぁんだ、良かった。」
精神的なダメージの方は回復するのではないだろうか?
・・・成分的には何の違いも無いにも拘らず。

『プリッ』という音と共に、隣のオヤジから何かが漂ってきたとする。
気分が悪くなるのは悪臭の成分の所為である。しかし、機嫌が悪くなるのは、その悪臭の元が オヤジだからなのである。
つまり、これは悪臭をオヤジとは別個のものとして見ていない、つまり悪臭は、オヤジそのもので 無いにしても、オヤジの付属品くらいの関係はある、と見なしているという事ではなかろうか?

だとすれば、オヤジと、彼を取り巻く世界との厳密な境界線はどこにあるのだろう?

私には、それを定義する事が、出来ない。

戻る