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後悔

「後悔をしない。」

私の座右の銘である。
あの頃は良かった、あの頃に戻りたい、と考えながら生きるのは真っ平御免だし、 梅干が良かった、どうしてあの時コンビニで、違うのを取っちゃったんだ、 と考えながら山の頂上でツナマヨおにぎりを食べるのも真っ平御免である。
無論、あの頃に戻る方法やツナマヨを梅干に変える方法があれば、 後から自分の選択の是非を問うのは無意味ではないだろう。

だがもう、選択の余地はないのだ。
最早、ツナマヨを食べるしかないのだ。
であれば、後悔するということに何の意味があるというのだろう。
後悔は何も生まない。
起きてしまったことは元に戻す事は出来ないのだ。
覆水盆に返らず。
ちなみに英語だともっと悲惨である。
it is no use crying over spilt milk(こぼしたミルクを嘆いても無駄)
確かに、会社の私の椅子には、かなり前にこぼした「飲むヨーグルト」の痕が くっきりと残り、それはそれは汚らしいのだが、もうこれは嘆いてもどうすることも 出来ない。

・・今度の席替えが、椅子ごと移動でありますように。


さて、後悔をしないために、日常生活を送るにあたり、私は以下の3点に気をつけている。(ただし思い出した時だけ。)

注意点1:まず、後悔しないように行動する。
注意点2:行動が確定してしまった後は、後悔するような情報を遮断する。
注意点3:もし後悔するような事態に直面してしまった場合も、後悔すること自体に意義を見出せないため、くよくよ考えない事にする。

注意点1:
「後悔しないように行動する。」
これは一番難しい。
やろうと思って出来るなら、苦労はしない。
だが、「本当に後悔しないか?」と己に問う事をせずに行動してしまうことが、如何に多いことか。

今、ここで、はっきり言わないと後悔するんじゃないだろうか。
今、これを買わないと、後悔するんじゃないだろうか。

考えた結果、何かをしても良いし、やっぱりやめても良い。
大体、考えたところで、いつも最善の方法を選択できるわけでは、ない。
考えすぎた挙句、選択を誤る事の方が多いくらいである。
だが、考えた、という事実が肝心なのだ。
考えたけれど駄目でした、は、考えなかったから失敗した、より、はるかに後悔確率が低い。

注意点2:
「行動が確定してしまった後は、後悔するような情報を遮断する。」
これはある程度意識して回避する事は可能だ。

私の母親の話だが、彼女は物を購入した後で、同じ、もしくは似た品物を見つけると、必ずその価格なり品質なりを確認する。 それが購入済みの物と同品質で高価格だったり、同価格で品質が劣っていたりすれば、 相対的に得した気分になれるのだろうが、 もしそうでなかった場合には、(購入した物の価値が変わる訳ではないのにも関わらず)不快な納得いかない気分になるだろう。 それが例えば電化製品や洋服といった、ある程度長い期間使用するものであった場合、 見るたびに「あーあの時なんで買っちゃったんだろ」と嫌な気分になるに違いない。 その危険を冒してまで何故「確認」という行動にでるのか、私にはさっぱり理解できない。
「だって気になるじゃない」と彼女は言うが、そこは好奇心を理性と知性でもって押さえ込む事を推奨する。
後悔したくないのならば、後悔する可能性のある情報は、排除するべきなのである。
0点であるかもしれない答案は、点数を見ずにさっさと捨て去るべきなのだ。

注意点3:
「もし後悔するような事態に直面してしまった場合も、後悔すること自体に意義を見出せないため、くよくよ考えない事にする。」

例えば夜更かしをした時。
あるいは深酒をした時。
翌日“げっそり”はする。
でも、もうしちゃったんだも〜ん。
してしまったものは仕方がない。
時間は元には戻せない。
タイムマシーンは存在し得ない、と、アインシュタインも言っていた。んじゃないかと思う。
それに、そう。
仮に過去(その時)に戻れるとしても、同じ選択肢を突きつけられた時、 恐らく私は、同じ過ちを犯すと思うのである。

勿論、今は何が正解かを知っている。
私は夜更かししてかつ深酒した次の日の自分がどんな状況か分かっていて、 昨日の自分および今の吐き気をなかった事にしたいと考えている。
だがそれは結果論である。
昨夜の自分は、こんな気分になるなんて、知らないのである。
知らないから、昨日の自分はやっぱり昨日の自分でしかないのだ。
私は運命論者ではないが、それでもある状況に置かれた時の自分の行動選択の範囲が 非常に狭いことは知っている。
アスパラは必ず下のほうから食べる。
自動販売機では一番右のボタンは押さない。
困っている人がいれば己の命の危険を顧みず助ける。(嘘)
そして、飲み始めて妙に楽しくなってきたら、自制心はほとんど働かなくなる。
・・・いや、そんなことはない。そんな理性の欠片もないことはないが、昨晩あの時あの湿度あの気温あの照度あの体調あの気分で、
「うーん、次の一杯を飲むべきかやめるべきか。」
と自分に問いかけた時、
「ここで飲まなくていつ飲む!」 と結論を出すのは、もう決まっていた事なのである。

過去に遡っても、多分同じ行動をとったに違いないから、反省はしても、後悔はしないのである。場合によっては反省もしない。
選択肢が複数あったとしても、分岐路がたくさんあるように見えても、 結局同じ道を選ぶのであれば、そこには元々ひとつの道しかなかったのと同じだ。
「ああしていればよかった」「こうしていればよかった」というのは 「天才だったら良かったのに。」「お父さんが王様だったら良かったのに。」という愚かな願いと同等なのだ。

そう、後悔など何の役にも立たぬ。
無論、誰だって役に立つと思ってするものではないだろうが、後悔とは 自分の脳内で完結している現象でしかなく、 気持ちの持ちようでどうとでもなることであるのも確かである。
後悔する暇があるなら・・・寝ていた方がマシである。
だから、私は後悔しないのだ。

先日、NHKの番組内で、某脳科学者が言っていた。
「後悔するということは、環境の変化に対応し、自らを成長させることだと考えられる。従って、自分を育て、成長させる効果的な方法として、「後悔する」ことをお勧めする。」


座右の銘「後悔をしない」

自分が一向に成長しないそのわけが、分かったような気がする。


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