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最後の一行
これは、ある男と女の物語ー。
(前略。そして中略。)
<ここまでのあらすじ>ある男であるところの亮介は、ある女である麻子と道ならぬ恋
に落ちる。二人は永遠の愛を誓ったが、時代の流れは彼らを翻弄し、二人は離ればなれ
になってしまう。そして、その、突然の別れから2年たったある日。
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見間違えるはずがない、あれは、自分がこの世の誰よりも愛した女だー永遠の愛を誓った・・・。
「麻子!!」
亮介は力の限り叫んだ。
麻子がゆっくりと振り向いた。
リョウスケ・・・。
震える唇が、彼の名を呟いた。
大きく見開いたままの麻子の眼から、涙が零れた。
亮介は立ちつくす麻子に駆け寄り、抱きしめた。
懐かしい麻子の体温。
亮介は自分の心に空いた穴が満たされていくのを感じた。
(あぁまるで・・・まるで夢のようだ)
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感動的な物語である。
いや、というか、感動的な物語である、ということにしておいてください。
私は文才が無いので、感動的な物語は書けなかったのであるが、感動的な物語を
書こうという意図を持って上の文章を書いたと言うことだけを理解してもらえると
有り難い。ーそうでないと、次に進めないので。
さて、上の感動的な「ある男と女の物語」だが、その小説の最後の一ページに
こんな文章が書いてあったら、どうであろう?
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懐かしい麻子の体温。
亮介は自分の心に空いた穴が満たされていくのを感じた。
(あぁまるで・・・まるで夢のようだ)
-----次ページ--------------------
ジリリリリリリリリ。
その時、目覚まし時計が鳴った。
正太郎は痙攣しながらガバッと起きあがった。
夢のような、どころじゃない。
全ては、夢そのものだったのである。
そう、この世に、麻子という女は、始めから存在していなかったのだ。
そもそも、自分の名前は亮介ではない。斉藤正太郎である。
ー長い、夢だった。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・。
虚しい。虚しすぎる。そう思いませんか?
今までの感動がおじゃんである。あれ?これって死語ですか?
ちなみに、「おじゃん 死語」で検索をかけたら、398件ひっかかった。
398・・・近所のスーパーの値札によくついている。消費税が付くと418円。
閑話休題。
感動の物語が実は正太郎君(23)の夢だった、という1ページが最後に付いているだけで、今までの感動がおじゃんである。おじゃん・・・あれ?これって死語ですか?
ちなみに、「おじゃん 死語」で検索をかけたら、398件ひっかかった。
398・・・結構多い。
死語であるという市民権を得ている単語は、果たして死語といえるのだろうか。
隠れ家として有名な料理屋は、果たして本当に隠れ家といえるのだろうか。
ダイエットして、胸だけやせるのは、果たして成功したといえるのだろうか。
閑話休題。
思わず鼻から涙が垂れそうになるくらい感動的な物語に、「全ては正太郎(
彼女いない歴=年齢)の夢だったのだ」という1ページが書かれているだけで、
今までの感動がおじゃんである。おじゃん・・・あれ、何やら妙な既視感が・・・。
がしかし、これはそもそも小説であるからして、もとからフィクションなのである。
従って、亮介はこの世に生を受けていないのである。
それどころか、表紙をめくり、一ページ目を読んだ瞬間から、
その世界の全てが虚構なのである。
そしてそれは改めて言うまでもなく、誰にでも分かっていることである。
だったら、最後の1ページは無かったことにして読み終えておけばいいのである。
正太郎の出演なんてなかったことにすればよいのである。
もしそのふざけたページが運良く奇数ページであったならば、そのページを
破り取ってしまっても構わない。
がしかし、そうしたところで、1度そのページを読んでしまったが最後、
「あぁあ、正太郎の夢だったんだ〜」という虚しさから、
私は恐らく逃れられないだろう。
だが、果たしてこの虚しさに、論理的な説明をつけることは可能なのだろうか?
虚構だと思っていたものが実はその一段下の「虚構の虚構」であったと分かったとして、一体どんな違いがあるというのだろう?
無論、作中人物に感情移入をするなんてことは良くあるわけだし、
そうでなくては小説の魅力は半減である。
が、それは、小説と現実を混同するということとは決定的に違うのである。
虚構は虚構だ。
そして私は、小説と分かっていてなお、様々な世界、登場人物に
惹かれるのである。
例えば、私はシャーロックホームズが好きである。
あの周りを気にしない自己中な行動にその洞察力と同じ程度に鋭い鷲鼻。
とても魅力的である。
しかしながら、彼は架空の人物であり、架空であれば、誰もが自分の頭の中で、
限りなく自分の理想に近い人物を作り上げることが出来る筈なのである。
自分の理想も考えられない空想力の貧弱な人間でなければ。
しかしながら、我々はしばしば、他人の作り上げた架空の人物に惹かれるのである。
そう考えてみると、何故、正太郎の夢である、という1ページが問題になってくるのか
が、おぼろげながら見えてくる。
公共、公認、という価値観がそこにある。
確かに、すごい美人の彼女(美男子の彼)でも、無人島に二人っきりであれば
その価値は半減どころか激減である。
虚構世界でも同じだ。
共通の虚構世界というのは虚構でありながら、「共通である」ということに
起因する存在の重みがあり、我々はそこに、何らかの価値を見いだしているのであろう。
そして、そこにはある種の共通ルールが存在している。
例えば魔法を使う男の子が主人公である小説に対し、「いや魔法なんてないし」
などと言ったり、
感動的な物語に対し、「どうせ作り物だし」などといちいち指摘しない、というのが、
それである。
このルールがなければ、そもそも、小説というジャンルの存在すら危うくなるであろう。
これは小説世界に対する、ある種の暗黙の了解なのである。
そして、虚構の虚構は、その暗黙の了解である世界のさらに下の「虚構」であり、
「虚構である」ことが、共通意識界での位置なのである。
だから、「正太郎の夢だった」という最後の一ページで、
感動的な小説は一気に無力感漂う三文小説へと成り下がってしまうので
はないだろうか。
私は私自身が思っているよりずっと、社会のものさしに左右されているのに違いない。
私は少し反省した。
そう、確固たる自分の基準を持ち、生きなければならぬ。
そう思いながら、私はふと鏡で自分の顔を見た。
・・・ぁあ!なんて美しい顔なんだ!!!
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