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仮面の裏

[MASK]
n. (舞踏・演劇用の)仮面; (防護用の)覆面, マスク; (石膏などの)顔型; 仮装者; 覆い;

先日、仮面をつけて、会社に行った。
「人は誰しも仮面をつけて生きている」ーそんな台詞をどこかで聞いたことがあるが、そんなことはない。私はいつだって素顔である。
が、その日は特別だった。私は仮面をつけて家を出た。
風邪をひいたからである。
私の鼻からは、幾分か粘性がある水分が生成され、それは重力に 逆らわずに下へと流れ出そうであった。
もしここが無重力地帯であるのならば、息を吐くときに鼻から押し流される鼻水は、 息を吸うときに粗方元に戻っていくものであるだろうに。
悲しいかな、ここは重力加速度9.8 m/(s^2)の地球であった。
いや別に水分過多ではないから良いよ、と思っても、鼻は勝手に体内から水分を 絞り出して外に外にと出そうとする。
自分の体が自分の意思を裏切る、というのはこういうことを言うのであろう。
私は困った。
鼻水の垂れた顔を人様に見られたら、私はもう生きては行けない。

・・・・。
こんなときは、根本を解決しようとするのではなく、とりあえずの対処法を 考えるのが先決である。
そうやって生きてきた。
鼻水が出るのは仕方がない。
ようは、それを人に見られなければよいのである。
ということは、マスクをすれば、たとえ少々鼻を垂らしていても、人には ばれない。問題は解決ではないか!!

そんなこんなで私は仮面ーマスクをして、会社までの長い旅路に出たのである。

顔の表面積に対してマスクの表面積が大きすぎたらしく、顔のおよそ60%を 白い布が占めている。
まるで、『悪いことを企んでいる人』のようである。
そんな自分を自意識過剰気味に恥ずかしく思いながら、私は電車に乗り込んだ。
空いている席に座り、目を閉じ、寝る体制に入る。
世の中には、電車の中で顎をあげて間抜け面を晒して眠る剛胆な人間もたまには いるようだが、私は防衛本能が正しく働くらしく、いつも下を向いて眠っている。
だから、元から無防備な寝顔を人に見られる心配も少ない。
それでも、マスクで危険区域(口元)を覆われているのは、 なんだか守られている不思議な安心感があった。
この感覚、知ってる・・・ママの脂肪の中・・・。
ふと気付くと、深く俯いて寝ていた所為で、マスクがずり上がり、目元まで来ていた。
『悪いことを企んでいる人』を通り越して、『悪いことをして逃げている人』 のようであったに違いない。

さて、こうして私は無事、鼻水を発見されることなく 会社に辿り着いたのだが、勤務中もそのままマスクを外さずにいた。
先程述べたように、鼻水垂れ放題の誘惑に勝てなかったのもあるのだが、 「お前にうつされた」と言われないように予防線を張っておくという目的も あるのである。
人に付け入る隙を与えないよう常に細心の注意を払って行動するのは、 ジャパニーズビジネスマンの基本である。
痴漢に間違われたくなければ、どんなに間抜けに見えても両手で吊革を握っておくのである。
がしかし、勤務中にマスクをしたままでいるのには、ひとつだけ、問題があった。
声がくぐもってしまうのだ。
常日頃絞り出しているカナリヤのような美声でないのは仕方がないにしても、 意思の疎通にまで影響が出てきてしまうのは少々困る。
結局、私は会話のために、何度かマスクを外さなくてはいけなくなったのであるが、 不思議なのはその時の不安感である。
いつも、マスクなどしないで生活しているーつまり、ありのままの自分の素肌を さらけ出しているというのに、一端マスクをすると、それを外すのに妙な抵抗を 感じるのである。
取って良いのだろうか。
このイタイケな唇を、この愛らしい鼻の穴を、衆目に晒しても良いのだろうか。

人前で服を脱ぎ、裸になることを恥ずかしいと思う、その理由の本質が、ほんの少し 分かったような気がした。

風邪の所為で、かどうか分からないが、イマイチ能率が上がらないまま 1日の仕事を終え、私は帰宅の途についた。
どこかフワフワした気分で道を歩く。
その時、まるで天啓のように、ふとある考えが私の頭に浮かんだ。
「今、笑っても、誰にも気付かれないぞ!」
私はその誘惑に勝てなかった。
欲望の赴くまま、マスクの下で、思いっきり笑顔を作ってみる。
その開放感。
なんというか、人間社会の常識にとらわれていない自由な気分であった。

たまには仮面をかぶるのも良いかも知れない。

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