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見栄


見栄、とか外聞とかプライドとかそういったモノが私の行動を如何に制限しているのかを 考えると、私は痛快な想いがする。いや、それじゃ躁病だ。私は心が痛む、うん、そうなのだ。 痛いのだ。
私はあまりブランド品に価値を置く人間ではなく、そういった意味で見栄に悩まされる事は 無いのだが、その反面、「平均以下」と見られるのは極端に嫌である。簡単に言ってしまえば、 「格好良い」事には興味が無いが、「格好悪い」事は酷く気になる、と言う事か。

例えば庶民派懐石料理屋にて。
メニューにあるのは「松」、「竹」、「梅」の3コース。
腹も財布も「梅」で良いと言っているのに、頭の中の見栄だけが、
「竹にしろ、竹。最低でも竹にしろ。」と喚くのである。それに逆らおうとすると、
「いいのか〜?本当に梅でいいのか〜?みんな見てるぞ〜。ほら、あそこの奇麗なお女中さんも、 隣に座っているカップルも、 お前が「梅」なんて注文したら『ハッ、アイツ貧乏人だぜ!』『まぁ嫌だ、あの人貧乏人よ』と 軽蔑した目でお前の事見るかもしれないんだぞ〜。」
見栄のヤツはそう言って私を脅すのである。そして
「御注文は?」
「あ、この「竹」を」
敗北。
その挙げ句、食べ残したり。
これが「松」「竹」「梅」ではなく、「豪快コース」「満腹コース」「上品コース」とかだったら まだ、一番安くて少ないヤツを普通に頼めるのに。「松」「竹」「梅」って言ったら、「貴族コース」 「庶民コース」「下流階級コース」って感じじゃん!!(←考えすぎ)

また、小さな土産屋に入った時にも、見栄<そいつ>は私の行動を制限してしまう。
地方の、小さな土産屋。お婆さんが少し離れたところからこちらを見ている。
「買えっ。見てるだけならタダ、なんて世の中そんなに甘くないんぢゃっ!」
そんな思念が約20%の酸素を媒体に私に向かって送られてきている気がする。(←被害妄想気味)
それだけでも私は何も買わずにその店を出る勇気を失いかけるというのに、 店に扉でもあった日にはもう絶対、何も買わずに手ぶらで店を出るなんて出来っこない。 扉に向かう、扉に手をかける、扉を押す、そうしてようやく外に一歩踏み出せる。
そんな長い時間、お婆さんの視線に耐える自信が、私には無い。
そうやって無理矢理買うものだから、落ち着いて気に入ったものを選べずに、 どこにでも売っている(ただし入っている地名だけが違う) キーホルダーなんてものを買ってしまったりするのである。

さて、今現在、日本は冬である。
冬であるから当然今日も寒かった。
私は外出しなくてはいけなかった。
着替えの為の、服を脱ぐ僅かな時間さえ我慢したくないひ弱な私。
そんな私の前に存在する物体。
その名は股引<ももひき>。
肌色の甘い誘惑。
アクリル72%、ナイロン18%、毛8%、ポリウレタン2%。
足したらちゃんと100%だ。 あまり暖かそうな組成ではないが、それでも確かに暖かな手触り。 ソフラン。だが私はその誘惑に素直に応える事が出来ないのである。
何故なら、私には、見栄があるのである。見栄という既知の生命体が私には寄生しているのである。 もう十代はとっくに過ぎたとはいえ、まだ若者の範疇に入るであろう私は、 動物的な欲望にしたがって股引を足に取る事が出来ないのである。
だって何かカッコワルイじゃん。股引って。特にその名称が。

だが、上述の料理屋のコース選び等あからさまな事柄と違って、外出中、股引が他人の目に留まる 事など殆ど無いだろう。勿論、恋人とホテルに・・・なんていう予定があれば、 また、プール等の為の着替えなどが待っていれば別であろうが、 普通の時は股引を履いている事はバレないで済むだろう。
コントのじいさんは股引しか履いていないようだが、実際にはその上から ズボンを重ねて履くものである。電車の中で足組んだってバレやしない。
にも拘らずそれを躊躇う理由はただ一つ、「交通事故にあった時に病院で 股引をはいている事がバレる!」
ただそれだけなのだ。それだけの理由で、交通事故にあうというとても 低いであろう確率の為に、私はこの寒い冬に股引を履く事が出来ないでいるのだ。
なんという悲しい、非効率的な生き物なのだろう。

見栄なんてものがなければ私はもっと自由でいられるのに。
冷たい風が吹く外と目の前の股引を交互に眺めて、私は独り溜息を付く。
今日もまた、80円の緑茶を買えずに、110円のコーヒーを買うのだろうな。

<終>

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