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新説・南極物語
昭和33年、南極に昭和基地が設けられた.厳冬の南極を乗りきるのに15匹の犬が選抜された。吹き荒れるブリザードの中の探険は犬に頼るのが全てであった。隊員の瀬田と越智は第2次越冬隊中止のため、犬を南極に置き去りにせざるを得なかった。取り残された15匹の犬たち。1年後に基地に降りたった隊員たちが見たものは・・・。
先日、TVで南極物語をやっていた。
人間がいなくなった後の南極での犬の生活を紹介するわけだから、
「風来のクマがアザラシを食料とすることを教えたのだ」
だとか、
「その時、ジロウは戻ってきた。」
とかいうのは全部、想像でしかないわけである。大体がフィクションなのである。
実際に分かっている事実としては、
・越冬隊員は犬を置き去りにしてきた。
・一年後戻ってくると、タロウとジロウが生きていた。
・何頭かの犬の死骸を発見した。
くらいなものである。
なのに、映画「南極物語」では
「氷河に流されたアンコが風来のクマと再会し、戻ってきたのだ。」
などと言っているのである。(なお、アンコも風来のクマも行方不明)
・・・勿論、だからといって、あの映画を非難しているわけではない。
今でこそツッコミ所満載な映画という感想を持ったが、当時の私はその映画を
見て感動した記憶もあるし、あの犬の迫真の演技や素晴らしい北海道(笑)の景色を
見ても当時としてはレベルの高い映画であったのだろう。
また、若い高倉健が今の高倉健と大して違わないということを証明しているという
だけでも価値のある映画であると思われる。
しかし、尤もらしく想像でしかないことを事実のようにナレーションするその映画を
見て、私は不意にこんな根本的な疑惑を持ったのである。
そもそも、本当にタロウとジロウは生きていたのであろうか?
何故そんなことを思いついたかというと、まず、2頭だけが生き残って、その
2頭が「兄弟」であった、というのが感動的すぎなのである。
まぁ、これは確かに、優秀な遺伝子であったということであると考えれば
おかしなことでもないのかもしれないが。
(ただし、もう一匹の兄弟サブロは、訓練中に怪我が元で死亡している。)
だが、それはおいておいても、
こう考えると、フィクションの可能性が否定できないことに気付くであろう。
すなわち、
「タロウとジロウの生存を捏造することで、全てがうまくいく」という事実である。
もし、タロウ、ジロウを含め、どの犬も一匹たりとも生きていなかった
(首輪に繋がれたまま死んでいた)のだとしたら?
あの話は、犬を置き去りにした酷い話というだけで終わってしまう。
動物愛護団体の執拗な抗議を受けるであろう。
(尤も、犬を置き去りにせざるをえない逼迫した状況であったらしいが。)
それが、タロウとジロウの奇跡の生還によって、180度変わり、
何故か感動的な話にくるりと変わってしまうのである。
偽装するだけの理由が、そこにはあるのである。
稚内の公式HPにもこんな文章が載っている。
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15頭のうちタロとジロだけが、奇跡的に生きていたのだ。
零下40度を超える極寒の地『南極』で1年間生きていたことは、すぐに日本に伝えられ、国内はもとより世界中の人々から感動と賞賛の声が寄せられた。
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感動と賞賛の物語なのである。
シロもゴロウも死んでしまったことには変わりないのに。
こんな文章もある。
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南極観測樺太犬記念碑
稚内で生まれ育った、映画「南極物語」のタロウ・ジロウの功績を讃えて建立されたものです。
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ほら、この文章だって、わざわざ[
映画「南極物語」のタロウ・ジロウ]
と書いてあるあたりに、
微妙に良心が咎めている様子が
見て取れるような気がしないだろうか?
「いや、嘘は書いてないんだけどー」って。
タロウ、ジロウの奇跡の生還は、作られた「奇跡」だったのではないだろうか。
小さい頃、どこかの博物館でタロウの剥製をみたが、あれはもしかしたらゴロウ
という名の樺太犬
だったのかもしれない、と思うのだ。
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