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指紋
指紋と言うのは、文字から想像するに、指の紋−模様の事だ。
しかしながら、厳密にはどれを指紋と呼ぶのだろうか?
ふと疑問に思った。
掌を上にした時に見える、5本ある指それぞれの先端についているソレを指紋と呼ぶのだろうか。それとも、他人の机からこっそり拝借したペンをこっそり元に戻すときに念入りに拭き取るソレを指紋と呼ぶのだろうか。
私の経験からすると、どちらも「指紋」と呼ばれている。
ということは、指紋とは物体ではなく、現象を指す言葉なのだろうか。いや、だとすれば、この指の先についている妙ちくりんなぐるぐるは何だ?これはー指紋だ。
これこそ、まさに指紋だ。指紋以外のなにでもない。ということは、犯罪現場に残されるのは指紋ではなく指紋痕だということになるのだろうか?しかし、火曜サスペンス劇場ではよく、目立たない顔の捜査員が叫んでいるではないか!
「指紋が一致しました!」
指紋とは一体何なのだ!!
・・・と、いうのを調べたいわけでは、別にない。今日は、指紋についてのあれこれを、考えてみたいと思う。(ちなみに、調べてみたいわけではなかったが、調べてしまった。指紋とはやはり、具体的な物体を指す言葉ではなく、指の模様という概念を指す言葉であるらしい。指にあるほうの指紋は正確には“指先にある皮膚隆線”、犯行現場に残されているのは、“指先にある皮膚隆線の痕”である。)
ところで、忍者ハットリ君の頬についているのは、生まれたばかりについたお父さんの指紋だって知っていましたか?
嘘です。
さて、あなたのお手元に、自分の指先があるならば、とりあえず一度見て頂きたい。
山型だったり、渦巻き型だったり、渦巻き崩れだったり、バリエーションは多いが、どちらにせよ地図の等高線のような模様がそこにはある筈である。
もし暇があるならば、自分の指紋と一番似ている山を探すのもまた一興であろう。
皆に馬鹿にされること間違いなしである。
進化の過程で 指の腹にこのような渦巻きの溝が出来たと言うのは、シマウマの縞ほどではないが、本当にすごいことだ。これがあるお陰で、我々は豆を素手で掴むことが出来るわけである。
この有難い存在である指紋。実は、物を掴むためだけに役立つわけではない。
恐らく進化の神様は、そんなものに使われるとは思ってもみなかったであろうが、指紋は犯人逮捕や本人確認などにも利用されるのである。
それというのも「ひとりとして同じ指紋は持たない(『万人不同』)」という前提があるからであるわけだが、小さいころは その事実に感心したものである。
が、よく考えてみれば、同じものがふたつとないのは、何も指紋に限った話ではなく、
顔が同じ人間だっていはしないのである。
しかし、我々が同じ筈のない人間を、見間違えることが多々あるように、
識別する側の精度が低ければ、「同じもの」として判断されることになる。ここは重要だ。
犯罪捜査における利用法を考えてみると、
指紋は現場に形として残されるものであるのに対し、顔の痕跡は通常“目撃者”というフィルタを通した形でしか得られない。
そして、目撃者という識別器が私と同じ程度の識別性能しか持たなかったのならば、
犯行現場近くで小倉優子(※1)と擦れ違っても、「アイフルのCMに出ている女性を見ました!!」と自信満々に証言しかねないのである。(※1 アサヒ缶コーヒーモーニングショットのCMに出ている)
つまり、あてにならない。
では指紋の識別方法はどうなのか?
現在は、指紋に存在する100近くの特徴を比較し、識別する方法が主流であるらしい。この特徴点は、12個も一致すれば、ほぼ完全に本人だと断定できるほどの識別度であるという。しかも特徴点を数値化することにより、コンピュータによる照合が可能となるーつまり早くて正確な識別が可能なのである。
それだけでも、指紋が犯罪捜査にどれだけ役立つか分かるというものだが、
指紋が優れている点はそれだけではない。
人間の顔は、当たり前だが年月と共に変化する。
いたるところが重力に負け、磨耗し疲弊し乾燥し、「あんなに美しかったあの人も、今や」という状態になる。
それと比較し、指紋は大きさこそ変化するものの、一生代わることはない。
それが、『終生不変』という特性である。
これは凄い。「私はもう、昔の私じゃないの!」と啖呵をきってみせても、指紋は昔の私のままなのである。偉大なる指紋様。
そういえば、指紋の話ではないのだが、私は左手の生命線を他の皺にくっつけて不正に長くしようと、時々右手の爪をぐいぐい押し付けて
バイパス工事を試みることがあるのだが、なるほど、より柔らかそうな指紋ですら終生不変なのだ、掌紋だってそう簡単には変えることが出来ないのであろう。一向に生命線が伸びる気配がない。
以上のように、「万人不同」「終生不変」という2大特性のお陰で、指紋は見事、科学捜査の大事な鍵
となったわけであるが、実は、指紋は指の先にあるだけでは役に立たない。
ハンコだって、朱肉がなければ印を押すことが出来ないのと同じで、
指紋だってただその模様を持った指があるだけでは跡は付かないのである。
脂だかなんだかが朱肉の役割を果たした結果、会社の金庫のダイアルに私の指紋がつくわけである。
で、その脂だかなんだかというのは、自分の体から生成され、自分の手を離れた不純物なわけで、だからこそ、人から借りたCDなんかに自分の指紋がついていると少し恥ずかしい。
いや、恥ずかしいのは確かだが、それだけではないような気もする。
そこには、恐怖に通じる何かがあるような気がする。
そう、存在証明だ。
指紋がそこにある、ということは、私がその物体を掴むなり投げるなり投げつけられるなりしたという証拠が誤魔化しようもなく残っているということだ。
防犯カメラがあると、なんとなく死角にもぐりこんでしまう私からすると、
こんな風に意図せず自分の痕跡が残されているというのは恐ろしく感じるわけである。
そんな私だから、日常生活でもよく、
「あー指紋付いちゃった。」
という台詞をはく。
まわりの人間の平均と比較すると、明らかにこの台詞を言う回数が多い。
タッチパネルを触るときなど、個人情報を登録されてしまうのではないか、という、ある意味自意識過剰な妄想を楽しく働かせてしまうわけである。
タッチパネルだけではない。
エレベータのボタンしかり電車の吊革しかり、よりかかったコンビニのレジの台しかり、その他もろもろ。
コンビニといえば、ある商品を手にとって、やっぱりやめて元に戻したりした日には、
もう大変な個人情報流出の危機だ。
無論、いつもいつもそんなことを考えながら生きているヤバい人では私はないわけだが、全世界で自分の指紋が何個残っているのかを考えると、時々恐ろしい気がしてくるのである。こんな風に、自らの痕跡を残すことを無意識に恐れてしまう私は、前世は余程謙虚な匿名慈善家だったに違いない。
今日も私は指紋を量産した。
デパートで、「これ下さい」と指したショーケース。
財布から取り出して渡した硬貨。
自動改札に吸収されていった切符。
本物かどうか確かめるために、店内の観葉植物の葉にも触ったっけ。
いろんなものに、私の指の模様と私の脂が付着した。
こうして今日も私は、自分の存在した証を、この世に刻みながら、生きている。
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