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食事と排泄に関する考察


「食事」と「排泄」は、言うまでもなく対の存在である。
食事をする者は排泄をするし、排泄をする者は食事をするのである。
風が吹いても桶屋は儲からないかもしれないが、食事をする者は必ず排泄をするのである。
クラスのアイドルであるみっちゃんも、憧れの的である3年D組の綾小路先輩も、みんなみんな、 排泄をするのである。
当たり前だ。
人間の体はその様に出来ている。
人間の体だけではない、三次元の世の中の全ては、摂取(食事)と排出(排泄)から成り立っているのだ。
映画館での客の入れ替え然り、鞄の中の物の出し入れ然り。
入れる行為と、出す行為は、同じ直線上の逆のベクトルなのである。
そう、何度も繰り返すようだが、食事と排泄は、対の存在なのである。

しかし、食事、という行為がオープンになされているのに比べ、排泄という行為の、 なんという嫌われ方か。
小説の中のマドンナは、しばしば上品にナイフとフォークを使って食事を取るが、 彼女は決して排泄をしないのである。
或いはするのかもしれないが、だとしてもそれはあたかもそんなもの初めから存在していなかった かのように、巧妙に隠されてしまうのである。
何故か?
勿論、私がそれに対する答を何一つ持っていないというわけではない。
確かに、排泄という行為は、シャーペンの芯を出すのとはワケが違う。
それは時に心地良くない感覚を呼び起こすし、何より実際に、きちゃない。
衛生面から見ても、排泄は、排泄のための場所にてのみ、行われるべき行為なのである。

しかし、それは、合理的な行動の筈だ。
服を買うのにブティックに、電車に乗るのに駅に行くのと同じように、しごく当たり前で 何ら隠すべき事柄では無い筈なのである。
しかし駅で、またはデパートなどで、トイレに駆け込む時の、あの独特の緊張感は、明らかに、排泄という 行為を隠蔽しようとする文化に侵されている結果であろう。

今日も私は、トイレの前で、知人に会ってしまった。
不幸な事に、そこにはトイレ以外何も無かった。
私には、誤魔化す術は無かった。皆無だった。
トイレから出てきた彼。
トイレに入っていく私。
そして擦れ違う二人。

私はなんとなく気恥ずかしかったし、プライバシーを侵害されたような気になり、 そして上述のようなとりとめの無い思考に翻弄されていたわけだが、ここにきて気付いた。

もしかしてこんな下らない事を考えるのは自分だけなのではないか?
他の人間達はーもしかしてー靴を買うのに靴屋に行くのと同じように、ごく自然に、排泄のために トイレに入っているのかもしれない、と。
排泄に対し、謂れ無い偏見を持っているのは、寧ろ私なのではないか、と。
しかし、男子トイレで個室に入った小学生が
「お前ウ○コしてただろ〜っ!やぁ〜い、ウ○コウ○コ〜っ!」
とイヂメられる光景は、ひどく日常的であるように思える(すくなくとも大人が、「子供って残酷 ですよねぇ」と言う時に例に出すネタとしては)。

さて、世間一般の人々の、排泄に対する位置づけは、どうなっているのでしょう??

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