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タニシを探す
この間の土日で、田舎に行ってきた。
田舎と言っても、父の生家。私がそこで育ったことはなく、幼い頃から年に二度、
祖父と叔父一家(叔父と叔母と従姉妹2人)に会いに遊びに行っていた家である。
その後、祖父は亡くなり、叔父の妻子はいなくなり(笑)、今は悠々自適1人暮らしの叔父の家となった。
そんな風に私の与り知らぬ間にその家の中では想像するだけで面倒くさいドラマが繰り広げられており、結果、人口が五分の一にまで減少する由々しき事態となっていたわけだが、にも拘らず、お正月とお盆にはお土産を持って一泊するという我が家の恒例行事は何も変わることなく現在に至るまで続いている。
ちょっとハチ公っぽい。
というわけで、当然のようにこの夏も一泊旅行に行くことになった。これを慣性の法則と言う。
土日は引きこもりがちな私にとって、貴重な休みを睡眠に費やせないということは次の一週間を快活に生きる気力を補給できないということを意味する。
しかしながら、ぶつぶつ言ったところで行くことは既に決まっている。
決まっているものは仕方が無い。
せいぜい楽しまないと損である。
無論、理系人間である叔父に会って話すのはそれなりに面白いし、
10年以上前に勝手に庭に埋めたセキセイインコの死体に手を合わせるという義務もあるし、檀家が少ないくせに半強制寄付を募って立派な社を建てた寺に行って祖父の墓にお供えをするというジャパニーズトラディショナルな用事もある。
だが、それでも私の貴重な睡眠時間を削ってまで行くだけのプラス要素が足りない。
それでは疲れ果てているであろう来週の自分があまりに不憫だ。
そこで、私は追加のプラス要素を必死に考え、その結果ー。
そうだ、タニシを獲りに行こう。
そういうことに(私の中で)なった。
何故タニシか、というと、我が家のメダカ水槽にタニシがいるからである。
いつ持ってきたのだかさっぱり覚えていないが、間違いなくこの田舎から持ってきた
ヤツら、の子孫である。
そういえば昔、
「タニシって水槽があればいつの間にかいるんでしょ」
と小学生のときにクラスメートが言ったのを聞いて少々唖然としたのを
覚えているが(と言いながら、自分もその当時、メスしかいないオカメインコの産み落とした卵をこっそり温めてみたことがある)、確かにタニシは何もないところから発生はしないにしても、数匹いれば勝手にどんどん増えたものである。
一時期はこんなにいらねーよ、と思うくらいいたような気もするが、新しい血が入らず種が弱ってきた所為か、はたまた屋外放置から昇格して室内で大切に飼うようになったのが何か悪かったのか、いつの間にやらどんどん減って、今では1.5cm程度の頼りない大きさの二匹を残すのみとなってしまっていた。
タニシは両性具有で、二匹いれば増える便利な生き物らしいのだが、一向に増える気配がない。
そういえば、昔は殻に藻がぼーぼー生えていて面白かったのに、今いる二匹は殻の色がそのままでつるつるで都会派っぽくて不健康な感じすらする。表面が溶けているんじゃないだろうか。水質が合わないのか。
CaCO3 + 2HCl = CaCl2 + CO2 + H2O
炭酸カルシウムに塩酸をかける実験を思い出した。
このまま放置すれば、いずれ今いるタニシも穴があいて死んでしまうかもしれない。
タニシなど、本当はいなくても良いのかもしれないが、いたものがいなくなるのは何だか悲しい。それで、タニシを獲ってこよう、ということになったわけである。
当日。
叔父の家に到着して仏壇に手を合わせるのもそこそこに、裏の田んぼへタニシ捕獲へと繰り出す。
何故か当然のように、両親と叔父もついてくる。
外は生憎の小雨だが、今は夏だ、気にしない。
わくわくしながら近所の用水路を覗き込み・・・
いない。以前はあれほどいたタニシが、全く見つからない。
時々、殻は見つかるのだが、既に死んで中身はない状態のものばかりだ。
私のようにここでタニシを探して持って帰る人間が、そうそういるとは思えないから、
これはきっとタニシ生息数が減っているということなのだろう。
減っている、と言うか、生きているものは一匹も見当たらないわけだが。
それでも殻があるんだから中身が入っているヤツだってまだいるに違いない、と、探していたが、そのうち雨も激しくなり、早々に諦めた。
実は、本当はまだしつこく探していたかったのだが、良い年した大人が雨の中タニシを探し続けるのもどうかという気がしたのである。
こんなとき、世間の常識に縛られている己を自覚する。
結局、その日はまだ明るいうちから酒盛りが始まり、延々と飲んで食べて、終わってしまった。
翌日。
天気は晴れである。
朝食を食べた後、散歩に。と見せかけて、再度タニシを探しに行った。
叔父が貸してくれたひしゃくを持って、母親もついてくる。
炎天下、じりじりと焼け付くような日差しの下で、田んぼ脇の土手にしゃがみこんで
地味な探索が開始された。
と、さささっと走る魚影。
フナか何かかと思って棒切れで追ってみたら、4cm程度の小さいドジョウだった。
良く見ると、かなりたくさんいる。
ドジョウ掬いで見る、あるいは柳川鍋で見るドジョウの大きさと比較すると、とても小さくて可愛らしい。
不合理極まりないことだが、その「種族」の基本的な大きさと比較して相対的に小さいもの、というのは総じて可愛く感じるものだ。
それで、タニシのことは一旦忘れ、可愛いドジョウをつかまえてみることにした。
ドジョウにとっては良い迷惑であろうが、まぁ獲って食うわけでもない、暫し付き合ってくれたまえ。
こうして私は、ひしゃくと棒切れで泥を攪拌しながらドジョウ捕獲に乗り出したのであった。ドジョウ。漢字で書くと泥鰌。名前に泥が付いているくらいだから、多少水が泥で濁ったって問題ないだろう。
ところで、どうでも良い話が、「エビを飼っている」「ドジョウを捕まえた」と言うと、2人に1人以上は「え、食べるの?」とおどけた様子で言ってくる。正確に数えたことはないが、本当に、かなりの確率でそう聞いてくる。
もしあなたがユニークさを追求したい人間ならば、こういう場面で「え、食べるの?」と言うのは避けたほうが良いと思われる。
閑話休題。
こうして私はタニシのことはすっかり忘れ、ドジョウ掬いに高じていたのだが、良く見ると用水路の中にはもう一種、アメリカザリガニもちらほらといた。
泥に穴を掘って、もぐりこんでいる。そこから覗く、鮮やかな赤。
まるでボイルしたて、みたいな色だ。
もぐっていなければタダの外来種の面白くもないヤツらだが、もぐっているとなればひきずりだしてみたくなるのが人情というもの。か。
そういえば、昨日の夕飯だったイカ焼きとタコのマリネの残りがあった筈!!
イカもタコも海の生物の筈だが、どうしたわけか、ザリガニつりには軟体動物(主にスルメ)と相場が決まっている。
というわけで、母親が餌となる食材を取りに一旦戻っていった。
戻ってきた母の手には、ビニール紐。と、先端にくくりつけられたイカとタコ。
刻まれて糸にくくり付けられたイカを、ぽちゃり、と水の中に投げ入れていた。
そうして熱く暑く静かな時間が流れる。
専らドジョウに夢中の私の横では、母親がザリガニつりに夢中になっていた。
自分より数十歳上の母親の、こういった楽しそうな姿を見ると、何か安心する。
昔は楽しかったこと、大切だったもの、が、いつの間にか下らないこと、つまらぬものに成り下がっていることに気付くのは悲しいことだが、少なくとも生き物採取に関しては
あと何十年かは楽しめるらしい。
炎天下飽きもせずにそれぞれの時間を楽しみ、かれこれ4,50分くらいはやっていたか、と思ったが、気付くと1時間半以上経過していて昼になっていた。これが相対性理論なのだな、と思う。
だが、これだけ粘っても、結局、タニシは見つからなかった。
見つからないものを残念がっても仕方が無いが、何の成果もないというのは悲しい。
というわけで、代わりにドジョウを持って帰ることにした。
そんな消極的理由で持って帰られるなんて、私がドジョウだったらさぞかし屈辱的な気がするだろうが、まぁここにいるドジョウ君達はそんなこと考えないだろう。
さて、全部で十匹程度捕まえたが、何匹持って帰るべきか。
今家にあるメダカ水槽は45cm。それに同居させるとなると、3匹ほどか。
だが環境が合わずに死んでしまうかもしれない。
そんな時は大体、まとめて死んでしまうものだが、何となく予備で+1、
4匹を持って帰ることにした。
計10匹ほどの中から、4匹になるまで、ぽとぽとと水路に放す。
これが、今後の人生の分かれ道かと思うと、何やら感慨深い。
そんなこんなで戦利品(ドジョウ)も見つかったことだし、まぁノルマ達成と言うことにして引き上げるか。
そう思って撤収していたところ、少しはなれたところから母親が声を上げた。
タニシ発見。
殻だけの可能性もあるので、ぬか喜びしないよう自分を牽制しながらそのタニシを受け取り、水を入れた容器に入れてみる。
固唾を呑んで見守る中、そいつがニョキっとツノを出した。
生存者発見!
今家にいる二匹と比べてふた周りほど大きいし、殻の色合いもナカナカ年季の入ったお姿である。私は感激した。
最早タニシはこの地から失われてしまったと思っていたが、探せば見つかるものだ。
これで、当初の最低ノルマも達成したわけだし、満足すれば良いのだが、一匹見つかると、もっと見つけたいと思うのが人間の常。
二匹目のドジョウならぬ、二匹目のタニシを求め、いっそう熱心に探したが、その後、一匹も見つからなかった。残念。
結局二時間に及ぶ捜索の結果、その立派なタニシ一匹と、タニシが見つかったにも拘わらずやっぱり自由の身にはなれなかったドジョウ4匹が容器に入れられることになった。
お昼を食べて、お墓参りをし、叔父とサヨナラし、容器を大事に大事に家に持って帰ってきた。
何をしに来たんだお前は。と、叔父は思ったかもしれない。無論、タニシを探しに来たのである。
さて、3時間ほどの電車の旅を終え、家にたどり着いて容器を見てみると、タニシもドジョウも元気なようで安心する。
水合わせをした後、メダカ水槽に放してみたが、特に問題もなさそうだ。
狭い場所で揺られているだけだと思っていたかもしれないが、君達は二つも県境を越えたのだよ。
別に有難くもないだろうが、そう語りかけてみた。
その後、何日か経過したが、タニシもドジョウも上手く環境に適応したようだ。
ドジョウはすこぶる元気で、発達していない浮き袋を懸命に使って浮き上がり、水面の餌をメダカにもまれながら一緒に食べている程だ。
むしろ先住者のメダカのほうが突進してくる細長い物体に、迷惑気である。
この分だと、ドジョウ掬いで見る、あるいは柳川鍋で見るドジョウの大きさになって
私から「可愛くねーな」と暴言を吐かれるのも時間の問題かもしれない。
反対に、タニシの方はどうも自分の殻に閉じこもっている時が多くて多少心配なのだが、気付くと場所が移動しているので生きてはいるのだろう。
そう思って特に気にかけずにいたが、数日前、3mm程度の半透明の丸が、水槽にへばりついているのを発見した。
数年ぶりに見る、タニシベイビーだ。
見えないところでちゃんと頑張っていたらしい。
今後も隣のカラフル熱帯魚水槽(45cm)に負けないよう頑張って欲しいものである。
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