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手帳を買う
先日、手帳を買った。
手帳を買うー実は、生まれて始めての経験である。
米不足の時、長蛇の列に並んでコシヒカリを買った事もあれば、
産地直送フェアの梅干しを買った事もある。
が、しかし、手帳を買った事は無かったのである。
それは何故か?
理由はいくつかある。
<1>
手帳には、アドレス欄なんてものがくっついている。
これが結構曲者である。
例えば、知人が数人いる場で。
「ねぇ、みんなメアド教えてよ」
誰かがこう言ったとする。すると、
当然のように他の者も手帳を出し、俺のにも、私のにも、と言って皆で住所電話番号メールアドレス
の交換会が始まるわけである。これがうざったい。まさか、アナタとアナタだけ書いて、なんて選別
出来るわけも無く、『絶対、連絡とらないよ、コイツとは』ってな奴の名前までもが手帳に記入され
かねない。嫌である。そんな心の狭い事を・・・と思われるかもしれないが、この手帳は約一年間
使い続ける物なのである。一年間も、手帳のアドレス欄を開く度に、絶対連絡とらないヤツの名前が
視界に割り込んでくるのである。ああ嫌だ。っていうか無駄。非生産的。
<2>
手帳は、予定を書き込んだり確かめたりするものであるため、持っているならば持ち歩くべき
ものである。何処へ行くにも持ち歩くのである。財布や時計と同じように、いっつでも持ち歩か
なくてはいけないのである。いや、別にいけない事は無いけどさ。
この「持ち歩く」というのがこれまた面倒くさい。
体積、重さ共に邪魔である。
例えば飲みに行く程度なら、手ぶらで財布はポケットでも良いのに、手帳を持っていくのならば
それを入れる鞄まで必要になってくる。邪魔である。
また、その重さはーほんの少しずつではあるがー常に、私の体に負担をかけているのである。
私の少ない体力を奪っていくのである。少しずつ、少しずつ、だが、確実に。
恐ろしい事である。
<3>
手帳とは、未来の予定を書く小さなノートの事である。
未来の予定だと?
未来が分からないからこそ、人は生きているんじゃないか!!
未来が分かっている人生など、まっぴら御免である。
が、手帳に例えば、「○月X日、H氏と飲みに行く」そう書いてあれば、
多分、それは現実に起こる事なのだ。
「△月□日、レポート提出」そう書いてあれば、
多分、前の日、私は徹夜をして目を赤く腫らしているのである。
「◎月▽日、デート」そう書いてあれば、
多分、次の日、私は振られてべそをかいているのである。え?
そんな風に、自分の未来が−例え一部だけだとしても−決まっているなんて、
嫌なのである。なんだか、可能性への自由度が一つ減ってしまったような
気がするのである。
○月×日、もしかしたら大スターになって横浜アリーナで一発芸をやっているかもしれないのに、
「○月×日、H氏と飲みに行く」手帳にそう書いてある事で、○月×日に大スターになる可能性が
消えてしまうような気がするのだ。無論、気がするだけであり、そんなもん手帳に書いてあろうが
無かろうが、初めからゼロだったりするわけであるが。
さて、こうやって、今まで手帳を持っていなかった理由を書いてきたわけであるが、
冒頭に書いたように、私は先日その主義主張を捨て、手帳を買ってしまったのであった。
そう、度重なる「予定を覚えていない」事からくるピンチが続いた結果、
流石に「買わなきゃまずいだろう」という結論に達したのである。
さよならアンチ常識人。さよなら、昨日までの自分。
新しく買った手帳は、表紙が青くて月1ページで薄くて軽くて、割と中はカラフルで、
若者で、結構いい感じである。
いい感じ、ではある。が、大学関係以外の予定が何も書き込まれていないその手帳は
自分の駄目人間ぶりを表しているようで・・・・・・
何となく、「チックショーっ!」と思った。
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