戻る

感覚その2ー聴覚

これは私の中では有名な話だが、私は自分の時間を侵害されるのが大嫌い な知的文化人である。
そんな私の最近の知的疑問といえば

「何故、目蓋があり、唇があるのに、耳蓋は無いのだろう。」

代わりに耳たぶなんてものはあるが、あれは集音器や指針の機能しかなく、 嫌な音には蓋をする機能が全くない。

実際、世界には聞きたくない音というのが満ちあふれている。
古き良き時代にはそんなことも少なかったであろうが、 今は都会のどんな店に行っても、流行りの曲(有線)が流れている。
私は温厚で知的で素敵な人間だと人から思われている節があるが、 どうやら耳に入る音に対しては狭量であるらしく、嫌いな曲がとても多い。 そして、その嫌いな曲が店で流れていたりすると、 気が狂いそうになるときすらあるのである。
だがもし、私に耳蓋があれば!! If I were a bird!
この忌まわしき音を遮断しておくことが出来るのである。
素晴らしい。

また、私は電話の音というのが大嫌いである。
実は音そのものに加え、その機能が嫌いであるということも大きいのだが、 この際そんなことはどうでも良い。
もし、私に耳蓋があれば、この忌まわしき音を遮断しておくことが出来るのである。
素晴らしい。

やはり、人類に耳蓋は必要ではあるまいか。
どうして、進化の過程で、耳蓋という素晴らしい器官を得ることが出来なかったのだろうか。
それとも、我々はまだ進化の途中であるのか。

そんな私の嘆きに対して、複数の友人は皆が皆、こう答えた。
「そりゃ危険を察知するために必要だからだよ」
独自性のないこと甚だしい。
そして、私を見る時の、目でありながら鼻で笑うようなその目つき。
失礼なこと、極まりない。
危険を察知するためだと?
そんな小学生並の模範解答、聞かなくても知ってるわい。
だが、もし危険を回避するためだというのならば、目蓋だってなけりゃいいではないか。
魚みたいに、寝てるときも目を開いていればいいのである。
・・あ、でも、そういう人いたな、大学の時。
あれは怖かった。


さて、ここまでは耳の追加機能(オプション)について論じてきたが、 もう少し本質的な機能について考察を進めていこうと思う。
耳の本質的な機能について語るのに都合の良い例がある。
「カクテルパーティー効果」というのがそれだ。

街の雑踏や学校の朝礼などの様々な音が入り交じった場所では、 他人の声は蝉の声同様、意味をなさない雑音として耳に入ってくるものである。
しかしながら、そんな場合でも、自分の名前を呼ばれるとびくりと反応したり するものである。
この、聴覚的選択を、カクテルパーティー効果という。
(なお、カクテルパーティー効果という名称の由来は、カクテルパーティーのような騒がしい場所においては、話している相手に注意を向けていればきちんと聞き取ることが出来るが、他に注意を逸らすと、他人の声や雑音と混じり合って聞き取れなくなってしまうことから来ている。)
なかなか興味深いことである。
確かに、私も、他人と会話をしている最中に他に興味がいってしまうと、 いつの間にか何も頭に入ってきていないことがしばしばある。
私の場合、「ごめん」という台詞の後に続く言葉、ベスト3の中に、間違いなく 「聞いてなかった」が入る。「あ、ごめん。聞いてなかった。」
耳には蓋がないのであるから、おそらく耳から聴神経を伝わって、どこかまでは 電気信号が伝わっているのであろうが、それが意識しているか否かで 私の心の聴神経に触れるか否かが変わってくるわけだ。
(心の聴神経ーちょっとうまい表現じゃない、と独り悦に入ってみたが、 別に全然うまくもなんともないどころか意味がないことに暫くして気付いた。)
この注意のメカニズムについて考えると、どうも睡眠学習は効果がなさげであるということが言えるであろう。

さて、このカクテルパーティー効果だが、私は議題「聴覚」にピッタリの、 ちょっぴり苦い青春の思い出がある。
視覚(錯覚)、味覚(高い値札のついたワインが美味しく感じる)をはじめ、 人間の感覚には「勘違い」が少なくないが、その中でも 聴覚「聞き間違え」は、日常の中で群を抜いて多いものである。
そう、私は、はじめてこの単語「カクテルパーティー効果」が何かの授業で出てきたとき、 見事に聞き間違えをしたのである。

「カクテルパンティー効果」と。

私の頭の中では一瞬にしてカクテルのように鮮やかなパンティーが華やかに舞い始め、 あやうく笑い出すところだったが、まわりが誰も笑っていない。
あれ?と、とりあえず笑いを抑えたのだが、先生が黒板に「カクテルパーティー効果」 と書いたときには、笑い出さなかった自分に心底ほっと、そしてぞっとしたのであった。

私は自分の感覚器ー聴覚というものの不確かさを思い知らされた。
私が人より幾分か疑い深い慎重な性格になったのは、これがきっかけだったのではないか、と、今になって思うのである。

戻る