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善光寺に行く

善光寺に行った。
別に行きたかったわけではない。
ただ、温泉旅行ツアーに組み込まれていたのである。
社会の歯車にはなりたくない、と思うアウトロー気取りの私でも、ツアーのスケジュールに逆らうほどの気力はない。
それで行くことになった。

さて、この善光寺、あの「遠くとも 一度は詣れ 善光寺」というキャッチコピーで有名な、信州にある寺である。
無論、私はそんなキャッチコピーの存在なぞ、ガイドさんが紹介するまで知らなかった。
知るはずも無い。知っている必要も無い。 そもそも、ひねりが無い。五七五であるだけで、何故一度はいくべきなのか分からないし、善光寺の魅力を全く表していない。
このレベルなら、私だってすぐ思いつく。
遠くとも 一度はおいで サファリパーク
遅くとも 来週までは 返せ金
・・・。
と、いきなりぼろぼろに貶してみたが、別に恨みがあるわけではない。

ところでこのツアー、前日は神社にいったような気がする。神社で賽銭を投げてお祈りさせた次の日に、寺で賽銭を投げてお祈りをさせるなぞ、かなり節操のないツアーであるような気もするが、私も去年の12/25には七面鳥を食べて、今年の1/1には近所のナントカ神社にお参りに行ったクチである。細かいことは言うまい。
加えて善光寺は、「宗派の関係なく宿願出来る霊場」であるらしいので、そもそも宗教的矛盾は起きないのかもしれない。 それにしても、宗派の関係なく、か。胡散臭いこと極まりない。 ただし、私はこういう何でもござれが結構好きである。

到着すると、まず、資料館という名の広間にツアー客全員が通された。
簡単な説明の後、係のおじさん(?)は、「お一人様ひとつ」と言いながら白い封筒を配る。お経でもくれるのかと思いきや、お札(おふだ)購入申し込み用紙だった。
「いらない方は戻してください。お札を欲しいと思う方のみ、一口千円ですので、お金を封筒に入れて住所を書いてください」と言う。しつこく繰り返す。
そういうことなら、配る前に言ってくれ。受け取らないから。
何のためにわざわざ全員に配るのか。
そして何故、買わない人間にはわざわざ封筒を返させるのか。
勿論、「一度受け取ってしまったものを返しに行く気まずさ」を利用した売り上げ増加作戦だ。(断言(笑))
3方が壁に囲まれているという空間も、圧迫感を倍増させている。
無論、大部分の人間は、封筒をそのまま返しに行ったのだが、これは新手の悪徳商法かと思うほどの圧迫感であった。私は当然のように同行者に託して返却したが、もし一人だったら買ってしまっていたかもしれない。 事実、一番前の二人は、お札を買っていた。もしかしたら本当に欲しかったのかもしれないが、やはり精神的圧迫に負けたのかもしれない。
ところで、こういう時、同じツアーの誰かがお札を買ってくれると安心するという心理はちょっと面白い。 部長がツまらないギャグを言った時に、誰かが笑ってくれた時の気持ちとちょっと似ている。似てないか。

さて、こんな風に心理的圧迫を受けたあと、ツアー御一行様という没個性弱小軍団である我々は、ぞろぞろと本堂へと向かった。
この本堂、7年に一度、2ヶ月弱の期間のみ御開帳とやらをするらしい。 で、何を御開帳するかというと、『お秘仏であるご本尊様のお身代わりとして、まったく同じお姿の仏様の「前立本尊」』であるそうだ。
勿体をつけて期間限定にしているが、有体に言えば偽物なのである。
ただし、偽者の癖して、集客率は高い。
平常、善光寺に来る参拝者の数は一年でおよそ700万人だが、2003年の56日間の御開帳では、600万人もの参拝者があったらしい。
つまり、「期間限定」というのがコレクターズスピリットを刺激したわけである。
ちなみに世の中の「期間限定チョコ」というのは大体4ヶ月 − 1年の1/3くらいは売られ続けていて、語感から受ける印象よりは遥かに長い期間、売り場に置いてある。 が、実態がどうであれ、消費者の心をくすぐることができればメーカーの勝ちなのであろう。
それを踏まえて、私も寺を建てるときは、入場料300円(ちょっと安め)の「期間限定」堂でも作ろう。
ただし、何年のうち何日公開するか、という点については熟考を要するであろう。
稼ぎ時は長いほうが良いからスパンは出来るだけ短くしたいが、 あまりスパンが短かすぎると期間限定の効果が薄れてしまうのである。
まわり(他の寺院)との兼ね合いもある。
5年に一度、3ヶ月程度(含正月休暇)が妥当なところか。
いや・・待てよ。
5年に一度、3ヶ月程度公開するお堂を5つ建て、それぞれの公開時期を ずらせば、毎年レアイベントを開くことが出来るではないか!!
あとは、スタンプラリーみたいに台紙でも配って、5年連続ハンコを集めたら お守り(しかもこの方法でしか手に入れられない)をサービス、とか。
入場料300円×5回、ガイドが必要なわけでもなく、ただお堂の中を歩かせれば 入ってくるのである。お守りくらいサービスしても、十分利益は出る。
賽銭箱は本尊の前以外にも入り口付近に設置。入って早々賽銭を投げてしまった人が、 「おい間違えて入れちゃったよ、こっちが本尊かよ」と言いながら再び財布を 取り出す仕組みだ。
入り口付近の賽銭箱は金属製のちゃちな作りにしておいて、本尊の前の賽銭箱を、 いかにも御利益がありそうな古色蒼然とした木の箱にしておけば、なお良し。
完璧。

さて、そんな風に神をも恐れぬ不遜なことを考えながら本堂に入ったが、見て回るほどのものは何も無かった。せっかくここまで来たのに、これで帰るのは勿体無い。と、いうわけで、「戒壇」という名の探検コーナーにも行くことにする。勿論、別料金である。まんまと敵の策略に嵌ってしまっている自分が少し悲しい。

ここで少し、戒壇について説明をしておこう。面倒なので、長野市の観光HPから抜粋。

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 善光寺本堂の中、三卿像の右手にお戒壇の入口があります。ここから階段を下り、4,5歩進むとあたりは漆黒の闇。右手を腰の高さに上げ、右側の板壁をさわりながら一歩ずつすり足で進んで行きます。瑠璃壇(るりだん)の真下を一回りし入口の北に向かうのですが、途中に板戸があり、そこには鍵が下がっています。この鍵に触れるとご本尊と結縁ができて極楽へ行けると伝えられています。
http://www.city.nagano.nagano.jp/ikka/kankou/f_zen.htm
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戒壇に入る。説明どおり、見事に真っ暗である。目を開けている状態でのこんな暗闇は、今まで記憶にない。記憶にないだけでありそうだが。
その暗闇を、右手で壁を伝いながら歩くのである。年甲斐も無く、ウキウキする。
「ここで前の人に無言で飛び掛ったら驚くだろうな〜」とか
「壁にこんにゃくを貼り付けていたらビビるだろうなぁ」とか
小学生並みのことを考えながら歩く。
だが、所詮、良識と常識から逃れられない小心者の私に、そんなことは出来ない。
今、私に出来ることは。

Save the children.

そう、誰からも見られないこの暗闇で、私は想像を絶する変な顔が出来るのだ!

考えてみれば、これは結構貴重なチャンスである。
たとえば、旅行などで皆が寝静まった後に暗い部屋で一人百面相を披露することは 可能だが、意識が無い人間は肉塊と同じ、そんなことをしても虚しいだけだ。
たとえば、映画館で、盛り上がったシーンで皆が画面に釘付けになっているときに ゴリラの顔の真似をすることは可能だが、間違って隣の人がこちらの顔を覗き込んで こないとも限らない。それでは緊張ばかりして、開放感が無い。
この、「誰もが意識があって目を開けていて、私の顔を見ることが出来る距離にいるのに、見られることは無い。だから私はどんな変な顔だって出来る」 という状況でこそ、私は常には味わうことの出来ぬ真の開放感を得ることが出来るのである。早速実践してみた。

開放感は無い上に、虚しいだけだった。

そこで、同行者にも「今、どんなに変な顔をしても誰にも見られないよ」と教えてやる。「うー」だとか「あー」だとかいううなり声が聞こえてきて、早速実践している気配が伺われた。
しまった、カメラを用意しておくんだった、と、一瞬後悔した。
安心しきって動かしているその顔を不意打ちでとられたら、いくら温厚な人でもキレるだろうな・・。

その後、前行く人たちの「あ、あったあった」という声に導かれ、私は無事、極楽へいけるという鍵を触った。そして自分もやはり、後続の人に伝えるべく、「あ、ほんとだ、 あったあった」と騒いだのであった。
ところであの、妙な連帯感は一体なんなのだろう。
私も例えば山で、珍しい動物を見つけたときなどは、必要以上の声でそれを指摘して、それとなく道行く他人にも情報を伝えようとしてしまう。逆に、誰かの必要以上に大きい独り言で、その先が行き止まりであることを知ったりすることもある。
随分と間接的な情報伝達ではあるが、これらは、人に幸せを分けてあげたい、という気持ちの表れなのであろう。
人間は素晴らしい。
ただし、この心温まる現象は、対象物が減らないものである場合に限る。

その後、戒壇の最後の角を曲がると、突然、光が見えた。
眩しい。私は目を細める。
下らない思考も邪念も、浄化されていくようだ。
光に満ちたこの世界は、なんて美しいのだろう。
思わず悟りを開きそうになった。

無論、その数分後、私の頭を占めていたのは 「あんな真っ暗なら、あの鍵の少し手前に偽物の突起でもくっつけておいたら、みんな有難がって間違えるんだろうなぁ」 などという下らない思考であり、悟りなど遥か彼方に過ぎ去っていた。
でも大丈夫。悟りなど開かなくても、もう私は極楽行きの切符を手に入れたも同然なのだ。
さっきちゃんと、戒壇の鍵に触ったのだから。


皆さんも、楽に極楽に行きたいならば、一度は善光寺に行ってみると良い。
なるほど、それで、このキャッチコピーなのか!


遠くとも 一度は詣れ 善光寺


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