昔は、さほど抵抗を感じていなかったように記憶している。
というか寧ろ喜んでポーズを取っていた。
自分で言うのも何だが、というか自分で言わなきゃ誰も言ってくれないので自分で言うわけだが、
「なんてキュートなお子様だろう!!!」
ってな感じであった。
しかし現在、そのかつてはキュートであった私は、写真に撮られることが大嫌いである。
どのくらい嫌いかということを定量的に述べると、
・虫よりはマシだが、ホワイトアスパラよりは嫌である(
参照)。
・電話の音よりはマシだが、掃除機の音と比べれば嫌である(ただし昼寝時を除く)。
じゃあ虫と電話の音はどっちが嫌いかと言われると、ちょっと困る。
ただ、虫の音を聞いても「秋だなぁ」としみじみ思うだけだが、
電話が鳴る音が聞こえると、恐怖のあまり動悸が激しくなることを考えると、
電話の方が嫌いなのかも知れない。
が、しかし、電話を踏んづけても精神的ダメージは無いが、虫を踏んづけると
壊滅的なダメージを受けることを考えると、虫の方が嫌いなのかも知れない。
まぁ私が虫より電話の着信音が嫌いであろうが、またその逆であろうが、私以外の
人間にとっては全く以て興味も関係もないことであろうから、この話はここまでに
しておこう。っていうかこれ以上書くことも無いし。
さて、写真、である。
繰り返しになるが、私は写真に撮られるのが大嫌いである。
特に証明写真系が苦手である。
個人写真だけでなく、集合写真も、出来れば関わりたくない。
がしかし、そうは言っても
現代日本で証明写真の類から避けることは難しく、渋々カメラの前にたつわけだが、
「ハイ、チーズ」の掛け声からシャッターが切られるまでの空白が長い場合などは
緊張しまくって、病的な痙攣を起こしている。
ちょっとヤバい人である。
そんな私であるから、
写真を撮られることを仕事としているグラビアアイドル(90,57,86)の気持ちは全く理解できない。
尤も、私はグラビアアイドル(90,57,86)ではないし、グラビアアイドル(90,57,86)になることもないであろうから、グラビアアイドル(90,57,86)の気持ちが分からなくても問題はないが。
問題は無い、が、しかし、写真が苦手なのには問題がある。
これでは、今後の社会生活において支障が出てきかねない。
写真が嫌いなばかりにお見合い写真が撮れずにバーチャル世界にのめり込み引きこもりになり
バーチャル結婚なんかして挙げ句の果てにバーチャル離婚なんかもしちゃって
そこはかとなく不幸せな人生を歩むことになりかねない。それは問題だ。
そこで私は、原因追及に乗り出した。
原因の追及は、苦手意識の克服につながる、と、児童心理学の本にでも書いてありそうじゃないか。ありそうなだけだけれど。
さて、では、始めよう。
何故、私は写真が嫌いなのであろう?
別に、肩のあたりに有り得ない人の顔が写っていたことがあるわけではない。
「物より思い出」とか言って格好付けているわけでもない。
ましてや、カメラのことを写真機と言って「いつの時代の人間だよ」と笑われた苦い思い出の所為ではない。
また、魂が抜かれると信じているわけでもない。もしそれが事実ならば、それでも生きている人間は一体いくつ魂を持っているのかということになる。使い捨て魂。
とまぁ、こうやって、消去法で思考をめぐらせた結果、ふたつの候補が残った。
キーワードは「自意識過剰」と「プライバシー」である。
まずは「自意識過剰」説を取り上げてみよう。
つまり、自分が本物と同じように美しく写っていないと耐えられない、というアレだ。
一般に、『<本物と同じように><美しく>』というフレーズに既に矛盾が含まれていることが多いのだが、それに気付かず、人は良く、このような文句を口にする。
美しくない被写体を美しく撮ったら、やっぱり出来上がる写真は美しくないのであろう。
真実を写すからこそ、「写真」なのである。
つまり、今の日本で、それは時代のニーズに合っていないのかもしれない。
そこで私はこんな新商品を提案する。
<貴方を美しく魅せますー
超低画質カメラ>
と、批判的なことを書いたが、じゃあお前は「自分は写真写りが悪い」とか言わないのか、と問われたならば、勿論言うのである。「実物の私はもっと美しい」と言うに決まっているのである。
がしかし、私に関してはそれは自明の理、若しくは定説なので、
特に改めて写真を嫌う理由にはなり得ない。他の人々はただの勘違いであろうが、私の場合は本当に写真写りが悪いだけなのである(笑)。
そういえば、写真写りの話としては、かなり以前、
「私、写真写り悪いから。」
「えー、そんなことないよ。」
という世にも恐ろしい会話を小耳に挟んだことがある。
写真に写っている自分が美しくないのは、事実自分が美しくないからである、という真実から目を逸らし、全てを写真写りの所為にしているふてぶてしい女。
そして、お世辞でも「確かに本物の方が良いけれどこの写真も可愛いよ」と言ってあげるべき場面で<テメーは元が悪いんだよ>という考えを隠しもしないキツい女。
顔もどっちもどっちだったが、性格もどっちもどっちである。
どちらにせよ、どちらとも友達にはなりたくない。
閑話休題。
さて、私が写真嫌いなのは、自意識過剰の所為では無いと思われるという結論が出
たので、次に考えられるのは、「プライバシー」である。
自分に関する情報が自分の手を離れて流れるというのは怖いことである。
だから私は、自分の居場所を教えるGPS付きの携帯などは持ちたくないし、個人情報を書き込むアンケートは極力避けたいと思っている。
であるので、いつどこで何を買ったかという情報が蓄積されるクレジットカードの類なんて以ての外である。
写真は、これらとくらべて、個人情報の質という点からはまだマシな気もする。
がしかし、自分が気を付けても意味がない(無駄)という点で、かえって危険が高いという考え方もできる。
自分の写真が加工されて(または素のままで)私の与り知らぬ場所で他人に笑いを
提供するかも知れない可能性を考えると、ぞっとする。
静止画を取られるのが嫌いなくらいだから、動画を撮られるのも当然嫌いである。
街のいたるところに設置してある監視カメラも嫌いである。
駅のホームの監視カメラも、わざわざ死角に入るような場所を選んで待機している。
前世はストーカー被害者、もしくは犯罪者であったのだろう。
と、私の写真嫌いの理由として、過剰なプライバシー防衛本能の可能性は低くないということが
分かったわけであるが、しかし、
実はこれも、私の写真嫌いを説明しきれていない気がするのである。
私の写真嫌いは、もっと深い、生物レベルで組み込まれたものではないかと思う。
まぁしかし、どちらにせよ、原因を究明して写真嫌いを克服することは出来無さそうである。私は相変わらず、写真が嫌いである。
先日、証明書に載せるための写真を撮った。
出来上がった写真の中の人物は、こけしと白カバのあいのこの様な間抜けな顔で、
何故か傾いて不自然に身を乗り出していた。
・・・一体誰なんだこれは。